リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 修羅の暗躍と、心理的支配(判決文の提示)
王家最高法廷を翌日に控えた夜。
王国の法務を取り仕切り、犯罪者を裁きの場へ引きずり出す「訴追局」のトップたる内務卿・メルカトーラ侯爵の執務室を、一人の少年が極秘裏に訪れていた。
「夜分遅くに申し訳ありません、内務卿閣下。明日の法廷に向けて、どうしてもお渡ししておきたいものがありまして」
第二王子リュートは、完璧な貴族の礼をとりながら、分厚い羊皮紙の束を執務机の上に静かに置いた。
王都の治安維持と警察権を握る近衛騎士団長(ゼノビア侯爵家)を、身内たる王宮の法廷で裁く。それは、訴追局を束ねる内務卿にとっても極めて重い政治的闘争であった。メルカトーラ侯爵は訝しげに眉をひそめながら、その束を手に取る。
「これは……明日のセオリスに対する『起訴状の草案』ですか? 担当の訴追官を通さず、第二王子殿下自らが筆を執られたと?」
「ええ。ですが、重要なのはその後ろの束です」
リュートが促すままにページを捲った内務卿は、そこに記された表題を見て息を呑んだ。
「なっ……『判決文』……!? まさか、最高裁判長たる陛下が読み上げるべき判決の文面まで、殿下が書き上げたというのですか!」
内務卿が驚愕するのも無理はなかった。起訴状ならまだしも、すべての審理が終わった後に下されるべき「判決文」を、一介の少年が事前に書き上げているなど、常軌を逸した不遜な先回りである。
だが、前世において国家の法理を司るエリート法曹であったリュートにとって、これは決して異常な魔法でも、単なる思い上がりの妄想でもない。
前世の記憶――彼がかつて潜り抜けた極めて難関な『司法試験』というものは、一般に誤解されがちだが、本質的には弁護士試験ではなく「裁判官登用試験」としての性質を持っていた。ゆえに、その最難関である論文試験では、与えられた事案に対し、自らが裁判官の視点に立って法理を組み立て、「判決文」そのものを論理の破綻なく書き上げることが基礎技能として求められるのだ。
実務に就いてからも、数え切れないほどの判決文を読み込み、裁判官の思考を先読みして訴訟を組み立ててきた彼にとって、「特定の着地点(死刑)」へ向けて誰の目にも完璧な法的推論(ロジック)を構築するなど、息をするのと同じくらい当たり前の『実務』であった。
「……兄上には、これから王位を継ぐための試練が必要です。そのためには、この国における真の『品位』というものがどういう法的根拠に基づくのか、一切の論理的破綻なく、明確な規範として示されなければなりません」
リュートは、「兄の成長を願う忠弟」という完璧な仮面を被ったまま、静かに語る。
「第一王子の品位と、国王の品位。二つの最高規範が衝突した際、いかなる理屈で裁きを下すのか。……この草案を、閣下が作成した『答申』として陛下にご提示ください。必ず、陛下の御意にかなうはずです」
メルカトーラ侯爵は冷や汗を流しながら、その判決文の草案に目を落とした。
そこには、「品位」という曖昧な概念を天秤にかけ、第一王子側のいかなる反論も許さないほど完璧な『比較衡量』の論理が、恐ろしいほどの完成度で綴られていた。長年、内務卿として行政と法を取り仕切ってきた彼ですら、一行の反論も、一文字の修正すらも挟めない、完全無欠の法理の刃。
『……なんという怪物だ。この少年は、弱冠十三歳にして、王家の裁定すらも自らの書いた紙の束の上で完全にコントロールしようとしているのか』
内務卿の背筋に、底知れぬ恐怖が走った。だが、優秀な老政治家である彼の脳裏に、その恐怖を上回る恐るべき「政治的打算」が即座に鎌首をもたげた。
『待てよ……。確かにこの少年の知性は王宮の脅威だ。だが、彼は黒髪赤眼の忌み子だ。宮廷正典のルール上、この怪物が王座に就くことは絶対にあり得ない』
メルカトーラ侯爵は、手元の完璧な判決文と、リュートの異端の容姿を交互に見つめた。
王にならないのであれば、この異常な知性は政敵ではなく、極上の「手札」になり得る。
『我がメルカトーラ家は侯爵家。娘を第一王子に嫁がせたところで、公爵家出身のヴィオラ公爵令嬢が王妃となる以上、なれても側妃止まりだ。今回の凄惨な事件を見ればわかる通り、後宮の泥沼に娘を送り込むのはリスクが高すぎる。……それに、我が家の男子たちは凡庸で、この複雑な訴追局を束ねる内務卿の座を継がせるには心許ない』
名ばかりの外戚になるよりも、遥かに美味で確実な果実。
老獪な政治家の脳裏に、強固な実利への計算が走った。
『……もし、この後ろ盾のない少年を我が家の娘の婿として迎え入れ、次代の内務卿として一族に取り込むことができれば。誰が玉座に座ろうと関係ない。我が派閥は、未来永劫にわたって王宮の法と実務を完全に支配できるのではないか……?』
内務卿の目に、明確な「欲」の色が浮かんだ。
リュートは、その老獪な政治家の視線の変化を、氷のような冷静さで見透かしていた。
「……素晴らしい草案です、リュート殿下。陛下には、私が責任をもってご提示いたしましょう」
内務卿は恭しく羊皮紙を胸に抱き、探りを入れるように笑みを浮かべた。
「しかし、殿下のこの類稀なる才能、離宮に留め置くにはあまりにも惜しい。……近々、我が邸宅にて、娘も交えてこれからの王国の規範について、深くご議論願えませんか?」
暗に「娘の婿として派閥に取り込みたい」という野心を見せた内務卿に対し、リュートは一切の警戒を見せず、ただ柔らかく微笑み返した。
「ええ。僕のような後ろ盾のない身を案じていただけるのであれば。……前向きに検討させていただきます、内務卿閣下」
これこそが、リュートが王宮の大人たちに敷いている絶対的な『心理的支配』であった。
黒髪赤眼という血統の瑕疵を逆手にとり、「王位の脅威ではない」と錯覚させることで、権力者たちの警戒心を「利用価値への欲」へとすり替えさせる。誰もがリュートを「自分の都合の良い駒」として組み込めると錯覚し、自ら彼の張った蜘蛛の巣へと足を踏み入れていく。
自らが書いた判決文という名の凶器を玉座の奥深くへと仕掛け、十三歳の修羅は、静かに開廷の朝を待っていた。