リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 内務卿との接触
離宮での密やかな講義を終えたその日の夕刻。
リュートは一人、王宮の中枢に位置する訴追局の長、内務卿メルカトーラ侯爵の執務室を訪れていた。
「――明日の処刑を控えた、セオリスへの面会許可をいただきたい、と?」
豪奢なマホガニーの執務机越しに、老獪な内務卿が興味深そうに目を細めた。
「はい。結果として重罪を犯したとはいえ、兄上(第一王子)の品位を守ろうとした彼の忠義自体は、本物でした。次代の王家を支える身として、その最期には個人的に労いの言葉をかけてやりたいのです」
リュートは「情に厚く、兄を立てる忠弟」という完璧な仮面を貼り付けたまま、淀みなく答えた。
「なるほど。リュート殿下のその深いお慈悲、感服いたします。……よろしいでしょう。私から地下牢の看守へ、特別に面会の許可を通しておきます」
「感謝いたします、内務卿閣下」
メルカトーラ侯爵は、羽ペンを走らせてあっさりと許可証をしたためた。
彼にとって、この要求を呑むことはリュートに対して「実利的な恩を売る」絶好の機会であった。許可証を差し出しながら、内務卿は世間話でもするかのように柔らかな声音で切り出す。
「ところで、リュート殿下。此度の法廷における殿下の法理の構築、誠に見事なものでした。長年この職に就く私自身、大いに啓発される思いです」
内務卿は、昨晩のように「自邸や娘」といった露骨な話題には一切触れなかった。優秀な実務官僚である彼は、一度躱された手札を無様に二度切るような真似はしない。代わりに彼が提示したのは、リュートの知的好奇心を刺激する『実利』であった。
「もしよろしければ、今後もこの執務室へ自由に出入りなさいませんか。ここには王国の過去の重要な裁定記録や、門外不出の法学資料が揃っております。殿下のような優れた知性を持つお方と、これからの王国の規範について、純粋な法学の議論を交わしたいと存じましてな」
それは、明確な「派閥への取り込み」の匂わせであった。
だが、内務卿の目には焦りの色は一切ない。なぜなら、目の前に立つ第二王子は黒髪赤眼という「忌み子」の容姿を持っているからだ。
王国の強固な血統至上主義というバイアスのせいで、他の宮廷貴族たちはまだ誰も、このリュートという存在の底知れぬ利用価値に気づいていない。競争相手がいない以上、ガツガツと急かして警戒される必要はない。こうして自らの持つ情報や権限を提供し、知的な師弟関係を装って外堀を埋めていけば、いずれ必ず自分の手の中に落ちる。老獪な実務官僚は、そう確信して余裕の笑みを浮かべていた。
一方のリュートもまた、手渡された許可証を受け取りながら、その内務卿の余裕と打算を氷のような冷静さで透視していた。
『……見事な提案だ。だが、この誘いに完全に乗り切るわけにはいかないな』
リュートがこの王国を内側から解体し、新たな法治国家を創設するためには、王宮の実務を担う「知的な宮廷貴族(侯爵家)」の掌握が不可欠である。
現在、その頂点に立つのは三つの家門。法務と行政を担う『内務卿家』、貴族たちの意見を取りまとめる『貴族院議長家』、そして国政全体を俯瞰する『宰相家』だ。
もしここで内務卿の誘いに安易に乗り、メルカトーラ家一本に絞って依存してしまえば、他の二家からの反発を招き、派閥争いに巻き込まれて身動きが取れなくなる。リュートにとっての最適解は、三家すべてと「つかず離れず」の絶妙な距離感を保ち、彼らを互いに牽制させながら自らの手足として利用することであった。
「身に余る光栄です、内務卿閣下」
リュートは、内務卿の機嫌を一切損ねない、見事な貴族の笑みを浮かべて恭しく頭を下げた。
「ぜひとも、閣下の深い見識と貴重な資料から学ばせていただきたく存じます。……離宮の警備体制の再構築や、兄上の精神的な補佐など、目下の騒動が落ち着きましたら、必ずご挨拶に伺わせてください」
明確な拒絶はせず、かといって即座に陣営に入る言質も与えない。相手に「有益な関係を築けた」と信じ込ませたまま、ふわりと一定の距離を保つ完璧な政治的対応であった。
「ええ、ええ。お気になさらず。時期が来ましたら、喜んでお迎えいたしますよ」
内務卿はリュートのその対応を好意的に解釈し、満足げに頷いた。網を張った蜘蛛は、獲物が自ら掛かる日を気長に待つつもりであった。
だが彼は気づいていない。自分が張り巡らせたつもりの蜘蛛の巣が、すでにリュートの描いた巨大な盤面の一部に過ぎないということに。
「では、失礼いたします」
執務室を辞し、冷たい石造りの廊下に出たリュートの顔から、柔和な笑みが完全に消え失せた。
手の中にあるのは、最も強固な警備をすり抜けるための、内務卿直筆の「万能鍵(面会許可証)」。
リュートは血の気のない冷徹な瞳を王宮の地下へと向け、足音もなく歩き出した。
自らの完璧な忠義を無惨に裏切られ、絶望の底に沈む狂犬の耳元で、甘く残酷な「真実」を囁くために。