リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 「品位」を盾にした冷徹なる交渉
内務省の最奥、厳重な防音の魔法が施された内務卿の執務室。
重厚なマホガニーのデスクを挟み、内務卿メルカトーラ侯爵と、第二王子リュートが対峙していた。
「――ということで、陛下と王妃様より、殿下を我が内務省の補佐としてお預けいただく許可が下りました。殿下の見事な法知識、ぜひ我が省の実務で存分に振るっていただきたい」
内務卿は柔和な笑みを浮かべ、そして本題を切り出した。
「つきましては、私の娘ユスティナとの将来的な婚約を、いずれ公にしたいと考えております。殿下にとっても、我が侯爵家の後ろ盾は決して悪い話ではないはずですが、いかがでしょう?」
恩着せがましく首輪を突きつけてきた老獪な官僚に対し、リュートは一切の感情を交えず、ただ深く、極めて誠実に見える作法で頭を下げた。
「身に余る光栄です、メルカトーラ閣下。しかし……その婚約の公表は、今はまだお待ちいただきたいのです」
「ほう? それは我が娘では不服だと?」
内務卿の目が微かに鋭くなる。だが、リュートは静かに首を振り、王宮の絶対規範である『品位』を逆手に取った、完璧なロジックを展開し始めた。
「とんでもありません。だからこそです。……私は長年『忌み子』として排斥されてきた身。今、国家の中枢たる内務卿閣下が私との婚約を急ぎ公表すれば、閣下の清廉な『品位』と陣営に致命的な傷がつきます。何より、罪なきご令嬢にまで『忌み子の妻』という不名誉な泥を塗ることになってしまう」
その言葉の響きには、我が身の不遇を嘆く悲壮感と、相手の立場と名誉を最優先に重んじる、血の滲むような『誠実さ』が籠められていた。
リュートは自らを徹底して低く置き、政治的リスクを客観的事実として突きつける。
「ですから、まずは私を四公爵家との『調整役』として、内務省のために存分に消費していただきたいのです。私が閣下の手足として働き、閣下の『実績』に十分に貢献できた暁に……誰の目にも、私がご令嬢の隣に立つにふさわしい男として認められたその時にこそ、改めて婚約をお受けさせてください」
身分差と理不尽な境遇を前にしても、決して驕らず、腐らず。ただ愛すべき(まだ見ぬ)婚約者と、義理の父となる男の名誉を守るため、自らを犠牲にして茨の道を歩むことを誓う気高き王子。
もしこの扉の向こうで、夢見がちな令嬢が立ち聞きでもしていれば、間違いなくその悲劇的で誠実な姿に心を撃ち抜かれ、彼のために命すら懸けようと決意するほどに、それは美しく整えられた「完璧な建前」であった。
だが、目の前に座る内務卿は、夢見がちな令嬢ではない。権力闘争を生き抜いてきた冷徹な官僚である。
内務卿の耳に届いたのは、「自らの立場を弁え、私の実績のために無償で働く有能で従順な駒」という、この上なく都合の良い宣言であった。
『なるほど。賢しいがゆえに、己の立場の弱さを正確に理解している。下手に野心を抱く馬鹿よりも、はるかに扱いやすい』
内務卿は内心でほくそ笑み、鷹揚に頷いた。
「……殿下のお心遣い、そして我が侯爵家への誠意、確かに受け取りました。殿下がそこまで仰るのなら、無理に急ぐ必要はありますまい。まずは我が省の権限と情報網を存分にお使いいただき、その実力を示していただきましょう」
「寛大なご処置に感謝いたします。閣下のご期待に添えるよう、粉骨砕身いたします」
リュートは再び深く頭を下げた。
だが、伏せられたその黒曜の瞳の奥には、忠誠心など微塵も存在していなかった。あるのは、厄介な婚約を合法的に先延ばしにしつつ、国家の内部情報と広範な実務・交渉権限を完全に手に入れたという、冷徹な勝利の光だけであった。
『品位』という建前を盾にした見事な盤面操作により、リュートは内務省という巨大な官僚組織の権限に、一切の縛りなくアクセスする鍵を手に入れたのである。