リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 打算なき直談判と、リーゼの意図せぬ庇護欲
息の詰まるような同調圧力に支配された茶会が終わり、貴族たちが三々五々散っていく中。
人気のない王宮の回廊で、第一王女リーゼロッテは足を止めた。彼女の行く手を、内務卿の令嬢ユスティナがただ一人で立ち塞がったからだ。
背後の物陰に控える護衛のルリカが、無機質な殺気を漂わせて柄に手をかける。だが、リーゼロッテは扇で軽くそれを制し、目の前の凡庸な令嬢を冷ややかに見据えた。第一側妃派閥の顔色を窺うだけの有象無象が、自分に何の用か。
だが次の瞬間、リーゼロッテの極めて冷静な思考は、完全に予想外の物理的挙動によって一時停止させられることとなる。
「リーゼロッテ殿下……っ!」
ユスティナは躊躇うことなく、冷たい大理石の床に勢いよく両膝を突き、その額を床に擦り付けたのだ。
それは、王宮において何よりも重んじられる『品位』を真っ向から否定し、貴族令嬢としての自己の尊厳を完全に切り捨てる、文字通りの「土下座」であった。
美しいドレスが汚れ、誰かに見られれば正気を疑われる恥辱の姿勢。だが、自らの目的のためにプライドという最大の足枷をノータイムで捨て去れる人間は、他者からの評価や同調圧力では決してコントロールできない『無敵の存在』と化す。謀略渦巻く王宮で生きてきたリーゼロッテは、目の前の令嬢が放つ異様な「覚悟の質量」に息を呑んだ。
「私には、皆様のような天賦の才も、華やかな知略もありません。自分が凡庸であることを誰よりも自覚しております」
床に額を擦り付けたまま、ユスティナは絞り出すような、しかし確固たる熱を帯びた声で直訴を始めた。
「ですが……リュート殿下が、私のためにご自身の立場を犠牲にされ、内務省で実績を積まれるというのなら! 私がただ待っていることなど許されません。私も血を吐くような努力をして、必ず殿下とリーゼ様の役に立つ『実務の駒』となります! だからどうか、私をリーゼ様の側近としてお使いくださいませ!」
その言葉を聞いた瞬間、リーゼロッテの脳内で数秒の沈黙が落ちた。
『……はい?』
ユスティナの悲壮な決意と、リュートの実際の意図。その二つの情報がリーゼロッテの頭の中で照合され、彼女は兄が内務卿との密室交渉で使ったであろう『都合の良い建前』の正体を完全に理解した。
『――ああ、なるほど。お兄様ったら、内務省の権限と自由を引き出すために、この健気な令嬢にとんでもなく都合のいい甘い噓を吹き込んだのね。……ええ、これは後でたっぷりと問い詰める必要がありますわね』
完璧な盤面操作の裏で、意図せず一人の少女の人生を狂気的な努力へと全振りさせてしまった腹黒い兄に対し、リーゼロッテは内心で深いため息をつく。だが、呆れると同時に、彼女は目の前の少女から目を離せなくなっていた。
王宮の人間関係は、常に裏表と打算で構築されている。リーゼロッテ自身も、本宮では無害な王女という仮面を被って生きてきた。
だが、目の前のユスティナの瞳には、打算も腹芸も一切存在しない。「愛する人のために、己のすべてを差し出して実務の歯車になる」という、純度百パーセントの狂気的な純情しかなかった。
東の地に、兄と絶対的な論理で結ばれた『完璧な共犯者(アイリス)』がいることを、リーゼロッテは知っている。客観的な盤面の戦力として見れば、アイリスの隣にこの凡庸な令嬢が並び立つ余地などない。
しかし、謀略の泥沼で生きてきたリーゼロッテは、不器用なまでに一途で、目的のために自己の尊厳すらあっさりと切り捨ててみせたこの令嬢に対し、激しい衝撃と、得体の知れない眩しさを覚えていた。
「……顔をお上げなさい、ユスティナ」
リーゼロッテはパチンと扇を閉じ、大理石に這いつくばる彼女の前に歩み寄った。そして、土埃で汚れたユスティナの頰にそっと手を添え、極めて優雅に、だが隠しきれない柔らかな庇護欲を込めて微笑んだ。
「そのドレスの汚れは、あなたが自身の名誉よりも『実力』を選んだ何よりの証です。あなたの打算なきその覚悟、私がこの手で買い取って差し上げますわ」
それは、打算で動く盤面において、唯一『純粋な情と狂気』で動く無敵の駒を手に入れた瞬間であった。
ここに、実務情報の鬼へと覚醒していく令嬢と、離宮の女王との間に、奇妙で強固な共犯関係が成立したのである。