リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 本宮の再起、盤上遊戯が繫ぐ逃避と回復
本宮の奥、第一王子の私室。
豪奢な円卓の上には、白黒の石が敷き詰められた盤上遊戯『オセロ』が置かれていた。
「……六十四手、盤面は黒の圧勝です。どうやら今回も、私の勝ちのようですね。グラクト殿下」
得意げな笑みを浮かべてそう宣言したのは、新たな側近として配属されたセラフィナ侯爵家の嫡男、リーデルであった。
次期魔導卿としての聡明さを自負する彼は、その頭脳の回転の速さを証明するかのように、容赦のない手回しでグラクトの白石をことごとく裏返していた。相手が傷心の第一王子であろうと、手加減をして機嫌を取るという「政治的な空気」を読むことが絶望的に欠如しているのだ。
盤面を埋め尽くす黒石を見つめ、グラクトの顔が蒼白に染まる。
たかが遊戯の敗北。しかし、極限まで精神が摩耗している今の彼にとって、その『敗北(黒)』という視覚情報は、己の保身のために見殺しにした忠臣セオリスの呪詛と、処刑台の凄惨な記憶をフラッシュバックさせるのに十分すぎる劇薬であった。
「あ、ああ……また、負けた。僕の白が、すべて……」
グラクトの呼吸が浅くなり、震える手が盤面を崩しそうになったその時。
背後に静かに控えていたもう一人の側近、エドワルド・シーン・カルネリアが一歩前へ進み出た。
「見事な手腕です、リーデル殿。――ただし、『単なる盤上の戦術』としては、ですが」
隙一つなく整えられたプラチナブロンドの髪に、理知的で計算高い氷青の瞳。貴族院議長の子息であるエドワルドは、空気を読めずに勝ち誇るリーデルを冷ややかに一瞥すると、グラクトの隣に恭しく跪いた。
「グラクト殿下。オセロという遊戯は、白と黒、すなわち勝者と敗者が明確に分かれる武門の戦いに似ています。しかし、我々が生きる『政治』という盤面においては、このリーデル殿のような『百パーセントの完全勝利』は、最も避けるべき愚行なのです」
「……愚行? 勝つことが、愚かなのか?」
「はい。敵を完全に叩き潰し、逃げ場を奪えば、相手は必ず死に物狂いで反撃に出るか、あるいは深い怨恨を残して将来の禍根となります」
エドワルドは盤面の黒石をいくつか手に取り、あえてグラクトの白石へと裏返して見せた。
「武力による闘争には、生か死かしかありません。しかし、政治における闘争とは『割合的な勝利』を目指すものです。たとえば、ある交渉においてこちらの要求を七割通し、残りの三割をあえて相手に譲歩して『相手の顔を立てて負けさせる』こと。実質的な利益(七割)を確保しつつ、相手に致命的な絶望を与えずに体制の中に組み込む。これこそが、為政者に求められる『戦略的勝利』です」
その言葉は、マルガレーテ王妃が体現している「国家のバランサー」としての思考体系と完全に一致するものであった。
王家の安定こそが貴族の責務であると信じて疑わないエドワルドにとって、第一側妃ヒルデガードが強要するような『絶対的な服従と完全勝利』は、いずれ国家という盤面を破壊する硬直した暴力に過ぎなかった。
「殿下はこれまで、第一側妃様のご期待に応えようと、一度の敗北も許されない『完全な白』であろうと無理をなさってきました。しかし、王とはすべてにおいて勝つ必要はありません。局地的な戦術で『負けること』を許容し、大局的な戦略において王家の威信を保てばよいのです。……七割勝てば、それは立派な名君なのですから」
七割の勝利でいい。負けることが許される場合がある。
その冷徹だが極めて合理的な『官僚のロジック』は、母ヒルデガードの呪縛に苦しみ、セオリスを見殺しにした罪悪感で押し潰されそうになっていたグラクトの心に、一筋の強烈な光を差し込ませた。
「……負けても、いい。三割を譲歩し、七割を……勝つ……」
グラクトは震える手で、エドワルドが裏返してくれた白石を握りしめた。
あの凄惨な事件すらも、エドワルドの思考体系に当てはめれば「王家の威信という七割の利益を守るために、三割の損害を許容した戦略的撤退」として脳内で処理(自己正当化)することが可能となるのだ。
第三側妃ソフィアが与える「あなたは悪くない」という感情的な逃避という名の甘い毒。そして、エドワルドが与えた「割合的な勝利」という論理的な自己肯定のロジック。
二つの異なる依存先を得たグラクトの瞳から、死人のような絶望の色がゆっくりと消え去っていく。彼は、エドワルドが持ち込んだ『オセロ』という極めて安全な箱庭の中で、傷ついた自己肯定感を別ベクトルで再構築し始めていた。
「……もう一度だ。リーデル、もう一度盤を並べろ。次は、僕が七割を取る」
「はっ? いえ、オセロは多く石を取った方の勝ちでして、七割で止めるというのは……」
「いいから並べろ!」
空気を読めないリーデルを怒鳴りつけながらも、グラクトの顔にはかつての『光の王子』としての威厳と生気が僅かに戻っていた。
エドワルドはそれを静かに見守りながら、自らの主君が「伝統的な貴族政治の頂点」にふさわしい為政者として成長していくことを確信し、満足げに目を伏せた。
だが、オセロの白石を握りしめ、新たな論理体系にすがりついたグラクトは、まだ一つの残酷な事実に気づいていない。
エドワルドが提示した『割合的な勝利』という合理的なスケールで、あのセオリスの凶行を客観的に再評価したとき、それが導き出す結論の異常性にである。
あの事件で第一側妃陣営が得た実利とは、「目障りな第二側妃を排除した」という、高々一割の感情的満足(ルナリアが生きていればそれすらゼロである)に過ぎない。対して失ったものは、最強の武門の筆頭たるゼノビア侯爵家からの求心力、民衆からの支持、そして第三側妃の過剰な台頭を許すという、九割の致命的な損害である。
あれは戦略的撤退などでは決してない。第一側妃ヒルデガードの個人的な感情と傲慢が引き起こした、損得を一切無視した「完全なる敗北」に他ならないのだ。
オセロの盤面を見つめるグラクトの瞳に宿り始めた、為政者としての知性と論理の光。
この新たな思考体系が完全に研ぎ澄まされ、かつての事件の「真の損益比」に辿り着いた時。彼は果たして、絶対的であった実母ヒルデガードの愚かさという最大のタブーに、自らの論理で斬り込むことができるのか。
それとも、己の精神を守るための都合の良い自己正当化のまま、真実から目を背けて思考を停止させるのか。
彼ら保守派の若きエリートたちは、まだ知らない。
グラクトが己の陣営の致命的な矛盾に気づくかどうかのその僅かな猶予の間に、第二王子リュート・セシル・ローゼンタリアという怪物が、盤面そのものを破壊し、経済と法という未知の暴力で国家を根底から喰い尽くそうとしていることを。