リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 前世の切り札の単独掌握
限界を迎えたヴィオラのSOSは、完璧な隠語を用いた手紙として、離宮の第一王女リーゼロッテのもとへ届けられた。
事態を察知したリーゼロッテは、即座に孤児院慰問という誰も大義名分を掲げ、ヴィオラを王妃の鳥籠(後宮)から連れ出すことに成功した。
向かった先は、王都の裏路地に位置する東の海運組合の隠れ家である。
分厚い扉が閉まり、王家の監視が完全に途絶えたその瞬間。完璧な令嬢の仮面を被っていたヴィオラは、糸が切れたように長椅子へと倒れ込んだ。
「あぁぁぁっ……! もう駄目、限界! このままじゃ過労で脳が焼き切れる! 意味のないお茶会の作法なんてどうでもいいから、私に図面を引かせてぇぇっ!」
優雅さなど微塵もない、純粋な技術者としての悲痛な叫び。
その様子を冷ややかに見下ろしながら、第二王子リュートは一枚の羊皮紙と羽根ペンを彼女の前に滑らせた。
「安心しろ、ヴィオラ。王宮の軟禁から君を合法的に救い出す手はずは、僕がすでに整えつつある。……だが、ただで助けるわけではない。僕たちがこれから始める『保険・投資事業』に不可欠な、天文学的な計算処理と数万人規模の顧客管理を可能にする魔導具。その設計図を、君の頭脳で引いてほしい」
「天文学的な計算処理……数万人のデータ管理……!」
その言葉を聞いた瞬間、死んだ魚のようだったヴィオラの瞳に、極彩色の光が灯った。彼女は跳ね起きるようにペンを握りしめ、水を得た魚のように歓喜の声を上げる。
「できるわ! 今の王国の魔導具は、構造が原始的すぎるのよ! 火を出す石は火を出すだけ、記録する石は記録するだけ。『入力・演算・出力』の術式がひとつの魔石に固定されているから、複雑な計算をさせようとすると魔石がパンクするの!」
ヴィオラは狂ったような速度で、羊皮紙に複雑な魔法陣と構造図を書き殴り始めた。
「だから、機能を完全に分離させるの! 文字盤からの『入力』、それを一時的に保持する『記憶魔晶』、そこに刻まれた命令を読み取って計算だけを行う『演算回路』、そして結果を映し出す『出力』。一時記憶と演算を物理的に分ければ、記憶魔晶に流し込む術式を変えるだけで、どんな複雑な計算でも無限に処理できるわ!」
それは、既存の「単一機能の魔導具」の常識を根底から覆す、極めて汎用性の高い計算処理の概念だった。
さらに彼女のペンは止まらない。
「データ管理も同じよ。数万人分の『名前・住所・年齢』を毎回記録石に書き込んでいたら、すぐに容量が尽きるし、探すのに何時間もかかる。だから、顧客一人一人に短い『識別符号(ID)』を割り振るの!」
「識別符号、だと?」
「そう! 個人情報は巨大な『基礎情報庫』に一度だけ記録しておく。そして、毎月の掛け金や配当の計算には、その短いIDと金額だけを別の記録石に書き込むのよ。あとは、そのIDだけを高速で並べ替えて検索するための専用の『索引石(インデックス)』を嚙ませれば、複数の記録石を紐づけて、一瞬で特定の個人のデータを引き出せるわ!」
荒い息を吐きながら、ヴィオラは書き上がったばかりの二枚の設計図をバンッと机に叩きつけた。
「これが、私の考えた最強の『汎用計算機』と『情報管理庫』の理論よ!」
その革新的な図面を覗き込んだリーゼロッテは、あまりの高度な概念に目を白黒させていた。だが、リュートの反応は全く違った。
彼は一切の表情を崩さず、極めて冷徹な為政者の顔を保っていたが――その内心では、激しい衝撃と戦慄が吹き荒れていた。
『記憶と演算の分離……間違いない、前世におけるノイマン型コンピュータの基本構造だ。そして、短い識別符号をキーにして複数のデータ群を紐づけ、索引で高速検索する構造……これは完全にリレーショナル・データベースの概念そのものじゃないか!』
ただのオセロの考案者というだけでは、単なる天才で片付けられたかもしれない。だが、この極めて現代的でシステマチックなITインフラの概念を、魔法という代替手段を用いてゼロから構築しようとするこの発想は、この世界の住人から出てくるものではない。
『こいつは、僕と同じ「同郷(転生者)」だ』
リュートは、目の前で興奮冷めやらぬ表情で胸を張るヴィオラが、前世の記憶を持つ人間であることを完全に確信した。
もしここで「お前も日本人か」と尋ねれば、彼女は歓喜し、二人は手を取り合って前世の絆で結ばれただろう。だが、リュートの冷徹な為政者としての戦略的思考は、その『感情的な共有』を瞬時に切り捨てた。
『いや、僕の正体(手札)を明かす必要はない。彼女が転生者であったとしても、「僕だけが知っている」というこの圧倒的な情報の非対称性こそが、今後の交渉において最強の武器になる』
相手の思考の根底を完全に把握していれば、誘導も搾取も自由自在だ。リュートは自らが転生者であるという事実を分厚い仮面の下に隠し通し、ヴィオラの持つ前世の技術知識を、自らの法治国家創設のために『盤面の切り札として都合よく使い潰す』ことを冷酷に決意した。
「……素晴らしい理論だ、ヴィオラ。君のその魔導具があれば、僕たちの計画は早まる」
リュートは感情を一切交えず、ただ純粋な実務家としての称賛を口にした。
「約束通り、君を王妃の鳥籠から解放し、この研究に没頭できる完璧な環境を用意しよう。……僕の盤面のために、その頭脳を存分に振るってくれ」
何も知らないヴィオラは「任せて頂戴!」と無邪気に笑った。
こうして、前世のITインフラという悪魔の技術が、冷徹な第二王子の手によって王国の裏側へと静かに実装されようとしていた。