リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 「地図を睨む王」の呪縛
内務省の執務室。
膨大な物流拠点と関所の配置が記された王国の広域地図を前に、リュートは静かに息を吐き出した。
現在、彼が内務卿から実務として任されているのは、「北のアイギス公爵家」と「東のオルディナ公爵家」を繫ぐ、流通網の調整作業であった。しかし、この二つの巨大な領域を連携させるという試みは、絶望的な暗礁に乗り上げていた。
両家の間には、単なる利権争いを超えた、建国初期から続く『決して交わらないイデオロギーの断絶』が横たわっているからだ。
歴史書において『地図を睨む王』と称される初代国王は、王都を物流の絶対的な中心として独占し、地方貴族への物資の流れを中央で完全にコントロールする体制を敷いた。それは武力を用いずして諸侯の首を真綿で絞める、極めて冷酷な「無血の兵糧攻め」であった。
この王家の専横に対し、王国最強の武力と誇りを持つ北のアイギス公爵家は軍事決起の準備を進め、東のオルディナ公爵家に経済的支援を求めた。
だが、東の決断は北の期待を冷酷に裏切るものであった。自給自足の基盤が強い北とは異なり、東の経済は王都を経由する陸路網に依存していた。オルディナ家は「ここで戦端を開けば、物流を止められた東は確実に干上がり、経済が死ぬ」と冷徹に演算したのだ。
結果、東は貴族としての誇りや北との連帯を早々に放棄し、王家から提示された「貴族院での莫大な俸禄と特権」という利に飛びつき、あっさりと王家に膝を屈した。
最大のスポンサー(東)が戦線を離脱したことで、アイギス家の戦略は破綻し、無念の内に王家に恭順せざるを得なくなった。
以来、武門の誇りを重んじる北は、東を「誇りを金で売った卑劣な守銭奴」と憎悪し、実利を重んじる東は、北を「地政学的な経済の死すら見えない狂犬」と冷笑し続けている。
これが、数百年経った今も続く、両家の絶対的な断絶の歴史であった。
『……この歴史的怨念の棚上げを東に要求し、同じ盤面に引きずり込むには、通常の利益提示だけでは不可能だ。オルディナ家を根本から僕の陣営に縛り付ける決定的な楔が必要になる』
地図の上に置かれた東の駒を見つめながら、リュートの脳裏に浮かんだのは、長男テオドールに代わり、東の資本と実務を牽引している公爵家長女・アイリスの顔であった。
彼女と完全な同盟を結び、東の力を掌握するための最も確実な手段。それは、血縁という不可逆の契約――『婚約』である。
だが、そこでリュートの思考は、前世の記憶に根ざした倫理観の壁に直面し、微かな淀みを生じさせていた。
前世の現代社会において、結婚とは家同士の政治契約ではなく、個人の感情に基づくものが優位であった。共働き世帯が過半数を占める時代にあっても、結婚とは単なる「仕事のパートナー」ではなく、安らぎを共有する「生活のパートナー」であるべきだという価値観が根底にあったのだ。
『理屈だけで伴侶を決め、己の戸籍を政治の道具にすることが本当に正しいのか……?』
リュートは自問する。
もし生活のパートナーとしての無難な平穏を求めるならば、例えば今、妹のリーゼロッテが側近として可愛がっている内務卿の娘ティナあたりを妻に迎えるのが、政治的にも角が立たない正解なのだろう。彼女は大人しく、家庭的な安らぎを与えてくれるかもしれない。
対してアイリスは、極めて優秀で冷徹な「仕事のパートナー」だ。そこに甘い恋愛感情や安らぎは介在しない。
『だが、現代社会でも同じだ。結婚という不可逆の契約を純粋な合理性や損得だけで測りきることなど、誰にもできない』
どれほど論理を積み上げても、最後に背中を押すのは、理屈を超えた若き『勢い』と『覚悟』である。
彼は、優しくも無力だった前世の常識を捨て、血統による人治国家を解体する為政者として生きると決めたのだ。ならば、無害な平穏など端から捨てる。その勢いをもって合理の壁を踏み越えるまでだ。
『仕事のパートナーか、生活のパートナーか。……そんな境界線は僕が吞み込み、彼女の人生のすべてを盤上の共犯者として背負う』
リュートの黒曜の瞳から、一切の迷いが消え去った。
東の強大な資本を自らの陣営に縛り付けるため。彼は、甘い愛の言葉など微塵も介在しない、己の命と国家の心臓(中央銀行)を対価とした『極重の契約(プロポーズ)』を提示する決意を固めた。