リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 ルリカの報告と、論理の女神の「焦り」
東の海運組合、王都本部に設けられたアイリスの専用執務室。
新たな保険事業の莫大な資金移動を示す書類の山を、アイリスが恐るべき速度で処理し終えた頃。音もなく執務室の窓から滑り込んできたのは、離宮の護衛にして暗殺者のルリカであった。
ルリカはリュートの臣下であるが、同時にアイリスの冷徹な知性と覚悟を深く敬愛しており、密かに彼女を「主君の隣に立つべき正妻」として支持していた。
「――アイリス様。本日は内務省の盤面について、至急お耳に入れておくべき事儀が」
「ご苦労様、ルリカ。……北のアイギス家との調整は、やはり難航しているようね?」
「はい。ですが、問題はそこではありません」
ルリカは表情を変えぬまま、アイリスの机の前に歩み寄り、声を潜めた。
「現在、殿下の内務省での実務を、ある一人の『見習い文官』が異常な速度で補佐しています。類似判例の抽出において、殿下の思考を先読みするほどの献身を見せ、あの殿下が顔も上げずに『完璧だ』と称賛の言葉をこぼすほどに」
「……ほう?」
「殿下ご自身はお気づきではありませんが……私の調べによれば、その文官の正体は、内務卿の令嬢、ユスティナ様です」
その報告を聞いた瞬間。
アイリスは優雅に広げた扇で口元を隠し、余裕に満ちた完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。
「まあ。内務卿の御息女が、自ら身分を偽って埃っぽい書庫で泥臭い実務を? ……健気で可愛らしいこと。殿下もさぞ、便利な手足を得てお仕事が捗っておいででしょうね」
表面上は、恐るべき冷たさと余裕を保った『論理の女神』。
だが――その内心では、年相応の少女としての激しいパニックと、これまでにないドス黒い焦燥感が大音量で警報を鳴らしていた。
『どういうことですの!? なぜそんな物語の悲劇のヒロインのような真似を!? しかもあの、他人の能力に一切の期待をしない殿下が「完璧だ」と!?』
アイリスは極めて高い知能を持つがゆえに、この事態の「論理的な危険性」を即座に弾き出していた。
リュートは恐ろしいほどの合理主義者である。愛や情熱といった不確かなものを、彼は決して政治の基盤にはしない。だからこそ、自分の実務を無言で補佐し、自己主張もせず、さらに内務省という巨大な権力基盤(内務卿)とのパイプを持つ『従順で無害な令嬢』は、彼にとって「最も費用対効果が高く、政治的摩擦を生まない伴侶の最適解」になり得るのだ。
『だめ、だめですわ! 殿下は本当に、そういう冷酷なまでの合理計算で、あっさりとあの凡庸な令嬢を生活の伴侶に選んでしまいかねない……!』
ギリッ、と。扇を握る手に思わず力がこもる。
アイリスは自らの頭脳と実務能力、そして東の資本力に絶対の自信を持っている。しかし、「家庭的な安らぎ」や「打算なき無償の献身」という土俵で戦えば、自分はあの小動物のような令嬢には絶対に勝てないという、鋭い自己分析もあった。
『私だって、殿下のためなら身も心も、東の資産のすべてだって差し出せますのに……! ……い、いえ、落ち着きなさい、アイリス。そんなみっともない感情論を殿下にぶつけては、ただの愚かな女に成り下がりますわ』
深呼吸を一つ。
アイリスは、胸の奥で暴れ回る「私だけを選んでほしい」という切実な乙女の悲鳴を、分厚く冷徹な『論理の装甲』で幾重にも覆い隠した。
愛や嫉妬で訴えても、あの怪物は動かない。彼を縛り付けるには、彼自身が最も好む「逃げ場のない論理と契約」を突きつけるしかないのだ。
「……ルリカ。有益な情報を感謝します。どうやら、私から殿下に『東の資本を動かすための最終交渉』を仕掛ける時が来たようですわね」
「はい。ご武運を、アイリス様」
ルリカが静かに影へと消えると同時に、アイリスは立ち上がった。
北のアイギス家との歴史的怨念を棚上げし、東の莫大な資本を、本宮の権力闘争というリスクに晒す。その極めて危険な譲歩に対する、『相応の担保』の要求。
完璧な大義名分(論理)を盾にした、最強の同盟者への宣戦布告。
アイリスは、絶対に悟られてはならない恋心と焦りを氷の微笑みの奥に隠し、足早にリュートの待つ王都の隠れ家へと向かうのであった。