リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 最強の担保と、選ばれた少女の「歓喜」
王都の裏路地に位置する、東の海運組合の隠れ家。
アイリスが一人でその薄暗い一室を訪れた時、リュートは長椅子に深く腰掛け、東の物流網とアイギス家領地の関所を記した分厚い資料に目を通していた。
「……夜分に申し訳ありません、殿下。至急、確認しておきたい儀がありまして」
アイリスは完璧な令嬢の微笑みを浮かべ、優雅に頭を下げた。だが、その声の奥には、ルリカからの報告によって引き起こされた、隠しきれない刃のような冷たさと焦燥が微かに混じっていた。
「北のアイギス家との流通調整の件ですわ。殿下は、我がオルディナ家が、あの誇りばかり高くて不愉快な『北の脳筋』と同じ盤面に乗り、東の資本をリスクに晒せとおっしゃるのですか?」
「ああ。アイギス家の武力と流通網をこちらに引き込まなければ、王都の完全な包囲網は完成しないからね」
「……そうですか。ですが殿下、私に『歴史的怨念の棚上げ』という致命的な譲歩を強いるのであれば、殿下も私に『相応の担保』を示すべきですわね」
アイリスは一歩踏み出し、リュートの黒曜の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
歴史的背景を盾にした、極めて論理的な牽制。しかしその裏には、「あなたを支えるのはあの文官ではなく、私だ」「私を選んでほしい」という、年相応の切実な感情が隠れていた。
かつて、母ルナリアの凄惨な死と復讐の業火に焼かれ、己の行いに絶望しかけていた夜。あの孤独な暗闇の中で、誰よりも論理的に彼の罪を肯定し、その背負う重荷を共に分かち合うと誓ったのは自分なのだ。あの夜の抱擁と誓いは、決して政治的な駆け引きなどではなかったはずだ。
『もしここで、彼が私をただの便利な金庫番として扱い、あの文官を伴侶に選ぶというのなら……私は、すべてを壊してしまうかもしれない』
アイリスの瞳が、僅かに揺れる。
だが、リュートは一切の動揺を見せなかった。彼は手元の資料をゆっくりと閉じると、ほのかに魔力を帯びた特注の羊皮紙と、王族でさえ滅多にお目にかかれない希少な『魔墨』の入ったガラス小瓶を、机の上を滑らせて彼女の前に提示した。
「……これが、君への担保だ。確認してくれ」
アイリスは訝しげに眉をひそめながら、その羊皮紙を手に取った。
そこに記されていたのは、甘い恋文でも、一時的な利益の確約でもなかった。
『将来、リュート・セシル・ローゼンタリアが国家の盤面を完全に制した暁には、新国家における「中央銀行の設立権」および「通貨発行権」をオルディナ公爵家に独占的に委譲し、アイリス・オード・オルディナを第一の共同経営者(伴侶)として迎える。本契約に違約が生じた場合、リュート・セシル・ローゼンタリアの命、および全資産をオルディナ家に譲渡するものとする』
その文面と、添えられた魔墨を目にした瞬間、アイリスの『論理の女神』としての冷徹な仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
魔法契約――署名者の魂と魔力に直接縛りをかける、絶対の呪縛。
この術式は、少しでも脅迫されていたり、心に迷い(ノイズ)があれば、魔力が不協和音を起こして絶対に成立しない。莫大な対価と、互いの完全なる『合意と覚悟』がなければ紙ごと燃え尽きてしまう、ごまかしの利かない劇薬だ。
愛や感情を綴った言葉は、ただの一文字も存在しない。
あるのはただ、己の命と、国家の心臓(経済の絶対的支配権)そのものを天秤にかけ、一切の逃げ道を断った極重の魔法契約のみ。
それは、合理主義の怪物であるリュートなりの、「お前だけが、僕の隣に立つ絶対の共犯者だ」という、ひどく不器用で、しかしこれ以上ないほど完璧な証明であった。
「……殿下、これは……」
「北と東の怨念など、僕がすべて吞み込んでやる。だが、僕は君の資本と知能がなければこの国を作り替えられない。だから、僕の命と国家の未来のすべてを、君に預ける」
リュートは静かに立ち上がり、アイリスの前に立った。
「この魔墨は、君の心に少しでも不満や迷いがあれば定着しない。……仕事のパートナーか、生活のパートナーか。そんな境界線はどうでもいい。アイリス。僕の人生のすべてを、盤上の共犯者として背負う覚悟が君にあるなら、サインしてくれ」
かつて、絶望の淵にいた彼を論理で救い上げてくれた少女に対する、彼なりの不器用で誠実なプロポーズ。
その重すぎる羊皮紙と、彼の真っ直ぐな言葉を受け止めた瞬間。アイリスの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
ティナへの不安など、完全に吹き飛んでいた。自分こそが、彼の命を預かる唯一無二の存在として選ばれたのだという圧倒的な優越感と幸福感が、彼女の全身を震わせていた。
「……ああ。素晴らしいですわ、殿下……!」
アイリスは震える手で羽ペンを握り、ガラス小瓶の魔墨に浸した。
「私のすべては、すでにあの夜から貴方のものです。……この契約、東の資本を預かるオルディナの長女として、そして何より、貴方の絶対の共犯者として、謹んでお受けいたしますわ!」
迷いなど、微塵もない。
彼女の魂から溢れ出す極上の歓喜と独占欲が、一切のノイズを持たない純粋な魔力となってペン先から流れ込み、羊皮紙の上にまばゆい光の軌跡(絶対の誓約回路)を完成させた。
二人は再び、あの夜のように静かに抱擁を交わした。
甘い言葉も、ロマンチックな口づけもない。だが、国家の心臓を対価とし、互いの魂の純度を証明した魔法契約書を挟んで抱き合う二人の姿は、どんな純愛小説よりも深く、強固な信頼によって結ばれていた。
論理の女神は、この最強の担保を胸に抱き、父と弟が待つ東の領地へと、完全なる勝利の足取りで帰還していくのであった。