リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

193 / 316
第4話『女神の歓喜4』

4 オルディナ家族会議と、公爵夫人の一喝

 

 東のオルディナ公爵領、本城。

 王国の経済を束ねる心臓部たる、豪奢にして実務的な当主の執務室に、重く硬質な怒声が響き渡った。

 

「莫大な利権とはいえ……愛する娘を、いつ首が飛ぶかもわからん本宮の権力闘争の只中にいる『忌み子』に差し出せというのか!」

 分厚いマホガニーの執務机を激しく叩いたのは、現当主であるオルディナ公爵その人であった。

 

 机の上に放り出されているのは、アイリスが王都から持ち帰った、リュート直筆の『密約書』である。

 

 オルディナ公爵は、利益を至上とする冷徹な資本家である。だが同時に、自らの手足となって東の基盤を支えてきた優秀な長女を、心から愛する父親でもあった。

 

「国家の通貨発行権と中央銀行設立権……確かに、建国以来いかなる大貴族も手にしたことのない天文学的な利権だ。東の悲願と言ってもいい。だが、相手は盤面において圧倒的に不利な第二王子だぞ! お前をそんな底なしの泥沼へ放り込み、あまつさえあの北の『狂犬ども』と同じ陣営に並べというのか。歴史の反逆にも程がある!」

 

「お父様の言う通りだ! 俺は絶対に認めない!」

 父の怒声に続き、次期当主である長男テオドールが血相を変えて立ち上がった。

 

「ふざけるな! 姉上がどれだけ身を粉にして東の実務を回してきたか、あんな得体の知れない王子にわかってたまるか! 第一側妃派閥や王家の連中を敵に回して、東の資本をリスクに晒すだけでも正気の沙汰じゃないのに、姉上の戸籍(人生)まで巻き上げるつもりか!」

 テオドールは次期当主として、アイリスの頭脳と東への献身を誰よりも尊敬している。だからこそ、この命と資産を天秤にかけた極重の契約は、彼にとって「利益のために姉を差し出す生贄の儀式」にしか見えなかった。

 

「俺は東の次期当主として、姉上を玉座の権力闘争の生贄になど絶対にさせない! あんな紙切れ一枚で、姉上を渡してたまるものか!」

 激昂する父と弟を前にして、アイリスは静かに息を吐き、扇で口元を隠したまま毅然と言い放った。

 

「……お父様、テオドール。冷静におなりなさい。これは生贄などではありません。私を第一の共同経営者として迎えるという、極めて対等で合理的な契約です。殿下はご自身の命と国家の心臓を担保に――」

 

「言葉遊びだ、アイリス! その男が敗北して死ねば、お前も東の資本もすべて道連れになる、逃げ道のない死の契約ではないか!」

 公爵は血を吐くような声で長女の言葉を遮った。

 

 そこにあるのは、東の当主としての経済的なリスクヘッジだけではない。娘を確実に死地へと向かわせる契約に対する、家族としての純粋な拒絶であった。

 

 リュートが提示した「最強の担保」は、アイリスの心を完全に陥落させた。しかし、家族としての情愛と、北に対する数百年の歴史的怨念を抱える男たちにとって、それは到底受け入れられる代物ではなかった。

 

「……話になりませんわね。感情で盤面を見誤らないでいただきたいのですけれど」

「お前こそ、その男にたぶらかされて目が曇っているだけだ!」

 膠着する主張。東の莫大な資本の行く末を決める執務室は、歴史的怨念と、それ以上に「家族を想うがゆえの感情的決裂」によって、完全に機能不全に陥ろうとしていた。

 

 その混沌を切り裂いたのは、鋭く、乾いた音だった。

 

 ――パチンッ!

 

 扇が閉じられたその一音で、公爵とテオドールの声が喉元で止まる。

 それまで窓際で沈黙を守っていた公爵夫人が、ゆっくりと愛する夫と息子の方へ向き直った。彼女の瞳には、感情に溺れる二人への、冷ややかなまでの失望が浮かんでいた。

 

「……情けない。二人とも、自分が今、誰を相手に吠えているのか分かっているの?」

「し、しかし母上、この契約はあまりに――」

 

「黙りなさい、テオドール。……あなたたち、東の当主と次期当主でしょう? 相手の覚悟の重さすら見抜けず、感情で喚き散らして商機を潰すのは、ただの『弱者の遠吠え』よ」

 夫人の氷の刃のような正論が、男たちの熱を奪う。彼女は机上の密約書を指先でなぞり、アイリスを見つめた。

 

「アイリス。あなた、この契約の毒を理解した上で選んだのね?」

「はい、お母様。これは私の人生を賭けるに値する、唯一無二の盤面です」

 

「よろしい。……あなたたち、聞きなさい。武家の気概すら失い、あなたたちは彼ら(アイギス家)以下の臆病者に成り下がったの? 命を懸けるべき選択を自ら掴み取れることは、何よりも喜ばしいことですわ」

 夫人は、狼狽える夫を射抜くような視線で制した。

 

「何も準備ができぬまま、ある日突然、王家の気まぐれや歴史の濁流に吞み込まれて死ぬ。そんな無為な最期に比べれば、自らの意志で、自らの命の値段を吊り上げ、逃げ道のない戦場へ赴く……。これほど誇り高く、合理的で、清々しい選択が他にあるかしら?」

 公爵は、妻の言葉に見えない刃で喉元を突きつけられたかのように息を呑んだ。

 

 「歴史の濁流に吞み込まれて死ぬ」。その言葉は、建国以来、王家に生殺与奪の権を握られながら、首に黄金の鎖を巻かれて生き長らえてきた東の根源的な恐怖であり、屈辱そのものであった。

 

 常に冷徹な現実を直視してきた夫人の一喝は、単なる娘を案じる父親に成り下がっていた公爵の眼を、再び『東の最高権力者(資本家)』のそれへと引き戻した。

 

 公爵はゆっくりと視線を落とし、机上の密約書をもう一度、今度は感情を完全に排した「冷徹な投資家」の目で読み込む。

 

 『国家の通貨発行権および中央銀行設立権』。

 それは王家の首輪を外すどころか、国家の心臓を物理的に握り潰し、東が真の支配者となることができる究極の利権だ。対する担保は、違約の際の『王子の命』。

 

『……これは愛娘を差し出す生贄の儀式などではない。東の全資本と歴史をベットするに足る、狂気的で、しかし極めて合理的な「究極の投資」だ』

 公爵の顔から、迷いと狼狽が完全に消え失せた。

 

 そこにあるのは、莫大なリターンと背中合わせの致死のリスクを前にして、静かに血を滾らせる勝負師の顔であった。

 

「……妻の言う通りだ。これを蹴るのは、東の誇りと未来に関わる、取り返しのつかない大損害だ」

 

 一方、次期当主であるテオドールもまた、母の言葉と、冷徹さを取り戻した父の横顔を見て、己の未熟さを恥じるように強く唇を噛み締めていた。

 

 見れば、密約書を胸に抱く姉アイリスの瞳には、悲壮感や犠牲者のような怯えは微塵もない。あるのは、東の未来と自らの人生のすべてを懸けるに足る「真の怪物(王)」を見定めた、絶対的な確信と誇りだけだ。

 

 自分が姉を守ろうと激怒したこと自体が、彼女の極めて高い知性と覚悟に対する最大の侮辱であったと気づいたのだ。

 

「……っ」

 テオドールは、握りしめた両拳が白く変色するほどの力で、自らの中に燻る「弟としての私情」を完全に押し潰した。

 

 優秀な姉が自ら最前線に立つというのなら、次期当主である自分がなすべきことは、後方で安全を説くことではない。東の全力を挙げて彼女の背中を支え、共に盤面を制圧することだ。

 

「……姉上が選んだのなら。俺も東の次期当主として、二度と私情は挟みません。共に、王家の喉元を喰いちぎりましょう」

 強硬な反対意見を、夫人の論理とアイリスの覚悟が完全に粉砕した。

 

 父と弟が己の内の私情を切り捨て、冷徹な資本家としての牙を取り戻したこの瞬間。禍根を残さず家族全員の『合意』を形成したオルディナ公爵家は、数百年の怨念を飲み込み、東の莫大な力を一本にまとめてリュートの背後に並ぶことを公式に決断したのであった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。