リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 東の譲歩と、王都の物価
東のオルディナ公爵家による、リュートへの完全なる結託。
この見えない最強のカードが盤面に切られたことで、リュートの内務省における最初の実務は、誰も予期し得なかった『歴史的成果』として結実した。
それは、東側からの「北へ向けた流通網の関税免除および流通拠点の効率化」という、実利における大幅な譲歩の確約である。
無論、そこには歴史的怨念の和解などという甘い感情は一切介在していない。アイリスはただ冷徹に、リュートという次期国家の絶対的支配者への「投資」として、東の利益を一時的に削るという純粋な経済的判断を下したに過ぎない。
だが、裏の事情を知らない内務卿メルカトーラ侯爵から見れば、それは奇跡に等しい手腕であった。あの徹底した利益至上主義の東から、武門の北に対する譲歩を引き出したのだ。内務卿は歓喜し、この前代未聞の功績を自らの差配によるものとして王家に奏上。リュートへの実務官僚としての評価は、内務省内で決定的なものとなった。
『……これで、第一段階は完了だ』
内務省の薄暗い執務室。リュートは提出書類の承認印を淡々と押し進めながら、脳内で自らの盤面を再確認していた。
『誇り高い北のアイギス家を交渉のテーブルに着かせるには、ただの言葉では足りない。だが、この東からの莫大な物流コスト削減という実利を手土産にすれば、彼らの軍備維持の要請と完全に合致し、必ずこちらへ引き込むことができる。……時期を見て、僕自身が北へ赴こう』
東の強大な資本と、アイリスという絶対の共犯者を掌中に収め、北の武力(アイギス家)を取り込むための「最強の交渉材料」まで手に入れた。王都を包囲する外堀は、極めて順調に埋まりつつあるかに見えた。
だが――その時である。
執務室の空気が、分厚い報告書を睨みつける内務卿の重い溜息によって沈み込んだ。
「……また上がっているな。小麦をはじめとする、王都の基礎食料品の物価が」
「はい。突発的な暴騰ではありませんが、ここ数年、年々じわじわと上がり続けており……平民たちの生活水準から見ても、そろそろ『限界点』が近付いております」
リュートは手元の物価推移の統計を冷徹な視線でなぞりながら答えた。
急激な飢餓や暴騰であれば、王家も即座に強権を発動する。だが、この「数年かけて気付かぬうちに真綿で首を絞めるような物価の上昇」は、権力者たちの危機感を麻痺させ、限界を迎えた瞬間に一気に暴動という致死の炎を燃え上がらせる、極めて悪質な時限爆弾であった。
「このままでは、遠からず王都の治安は崩壊する。市場を安定させるには、王国の胃袋(穀倉地帯)を握る南のヴィレノール公爵領からの『食料供給の絶対量』を増やすしか手はない」
内務卿は頭を抱えながら、目の前の優秀な第二王子へと重い決断を下した。
「……リュート殿下。東からの歴史的譲歩を引き出した貴方の交渉手腕を見込んで、お願い申し上げる。至急、南のヴィレノール公爵家への特使として赴き、王都への『食料供給の増加』を勝ち取ってきてはいただけないだろうか」
「承知いたしました、閣下。直ちに南へ向かう準備を整えましょう」
恭しく頭を下げながら、リュートの脳裏には冷酷な法曹的・経済的演算が高速で走り始めていた。
『不作の報告もないのに、年々王都の物価が上がり続けている。南のヴィレノール家が意図的に供給量を絞り、王都の胃袋を人質に取って静かに権力を誇示しているのか……。いや、あるいは南からの供給量自体は変わっていないにも関わらず、王都へ至る街道を管理する中央貴族たちが、関所での不当な中抜きや通行税の吊り上げを貪欲に繰り返している結果か』
どちらにせよ、現在の物価高騰はただの自然現象などではない。人の欲望が引き起こした『盤面の歪み』だ。
北のアイギス家へ赴くための手土産を手に入れた直後に突きつけられた、王都の限界という物理的なタイムリミット。
リュートは東の譲歩という成果を懐に忍ばせ、その物価高騰に潜む真の腐敗の構造(原因)を見極めるべく、いまだ底知れぬ不気味さを漂わせる南の公爵領へと、その鋭利な知性の矛先を向けるのであった。