リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 「血の味がする遺産」
東京弁護士会所属 私が代表を務める法律事務所。
午後2時45分。
相談室の空気が、重く澱んでいた。
依頼者は70代後半の女性、高橋恵子。
夫を2年前に亡くし、唯一の相続人である娘・美咲(45歳)と遺産分割で揉めていた。
遺産の中心は、都心から少し離れた一軒家(評価額約8000万円)と預貯金約3500万円。法定相続分では母娘で半分ずつだが、美咲は「母はもう年寄りなんだから、家は私が継いで住むべき。母は施設に入ればいい」と主張し、代償金の支払いを拒否していた。
恵子は震える手でティッシュを握りしめ、声を絞り出した。
「弁護士さん……娘が、昨日も電話で……『あんたなんか死ねばいいのに』って……。私、こんなに怖い思いしたの、初めてで……」
私は無言でメモを取っていた。
すでに美咲側からのメールと録音データは入手済みだった。そこには「母の介護なんてした覚えはない」「全部私が面倒見てきたわけじゃないのに、なんで半分もよこすの?」「施設代なんか自分で出せ」「死ねば済む話だろ」という言葉が並んでいた。
「高橋さん。娘さんは、相続放棄の意思表示をしていない以上、法定相続人です。ですが、遺産分割協議がまとまらない場合、家庭裁判所に調停を申し立てることも可能です」
恵子は首を横に振った。
「調停……? そんなことしたら、もっと娘が怒るんじゃないかしら……。でも、もう我慢できないの。あの子は、私のことを『金づる』としか見てないみたいで……」
ドアがノックされ、事務員が美咲を連れて入ってきた。
美咲はブランド物のバッグを肩にかけ、化粧の濃い顔で母を一瞥した。
「母さん、また弁護士に泣きついてんの? いい加減にしてよ。家は私が住むんだから、母さんは老人ホームで余生を送ればいいじゃん。金なら少し分けてあげるよ」
恵子が体を震わせた。
「美咲……あなた、お父さんが亡くなったときも、葬式の費用すら出さなかったじゃない……。私が全部払ったのに……どうしてそんなひどいこと言うの……?」
美咲は鼻で笑った。
「だって母さんが甘やかしてきたからでしょ? 私が働いてる間、父さんの面倒も見てなかったくせに。今さら『家族だから』とか言われてもね。金が欲しいなら、さっさと家を売って分けてよ」
私は静かに口を開いた。
「美咲さん。遺産分割では、法定相続分が原則です。家を単独で取得する場合、相手方に代償金を支払うのが民法の規定です。拒否し続けるなら、調停・審判で強制的に決められます」
美咲は目を細めた。
「へぇ、弁護士さんってそんなに偉いんだ。じゃあさ、母さんが施設に入る費用、私が出さなきゃいけないの? そんなの知らないよ。母さんが勝手に長生きしてるのが悪いんでしょ」
その瞬間、恵子が立ち上がった。
顔は真っ青で、唇が震えていた。
「美咲……! あんた……本当に私の娘なの……? お父さんが生きてた頃は、あんなに優しかったのに……どうして……どうしてこんな……!」
美咲は冷たく言い放った。
「優しかった? あれは演技だよ。父さんが生きてる間は、財産の半分が私のものになると思ってただけ。父さんが死んでみたら、母さん一人が全部持ってるなんてズルいじゃん。だったら私が全部もらってもいいよね?」
恵子は崩れ落ちるように椅子に座り込み、嗚咽を漏らした。
「もう……いい……。全部あげてもいい……。あんたに……私の血が流れてるなんて……信じたくない……」
私は深く息を吐き、書類を閉じた。
「本日ここまでとしましょう。高橋さん、今日はお帰りください。美咲さんも、後日改めてお話を伺います」
美咲は舌打ちして立ち上がり、ドアを乱暴に開けた。
「早く決着つけてよね。母さんがグズグズしてるせいで、こっちの予定まで狂うんだから」
ドアが閉まった瞬間、恵子が私に向かって呟いた。
「弁護士さん……私、娘を……憎んでしまう……。こんな気持ちで死にたくないのに……」
私は静かに答えた。
「高橋さん。あなたは、まだ生きています。娘さんが何を言おうと、あなたの人生はあなたのものです。……ただ、残念ながら、人間というのは、金が絡むと、血のつながりさえ簡単に踏みにじる生き物なんです」
事務所の窓から差し込む午後の陽光が、恵子の白髪を照らしていた。
その光の中で、彼女の瞳は、すでに何かが壊れたように曇っていた。
検察時代に味わった「身勝手さ」の次に、今の私は「強欲」という名の怪物に直面していた。
人は、金のために家族を切り捨て、親を「金づる」と呼ぶ。
そしてその怪物は、決して満足しない。もっと、もっと、と貪り続ける。
この世界で、本当に「家族」などというものは、存在するのだろうか。
それとも、ただの幻想で、遺産という餌が撒かれると、仮面が剥がれ落ちるだけなのだろうか。