リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 初恋の終焉と、王女の絶対の腹心
翌日の夜。王都の片隅に用意された、暖炉の火だけが赤々と燃える薄暗い一室。
極秘裏に呼び出された内務省の見習い文官――内務卿メルカトーラ侯爵の令嬢であるティナは、緊張に身を強張らせながら、目の前に座る王女リーゼロッテが卓上に滑らせた一枚の羊皮紙を見つめ、息を呑んだ。
それは、第二王子陣営が国家転覆を企てているという最高機密と、その全責任がリーゼロッテ自身にあることを記した、王女の命を懸けた『自白書』であった。
「ティナ。兄様が貴女を迎えに手を伸ばす時、それは兄様が中央貴族すべてを敵に回す時です」
リーゼロッテの氷のように澄んだ声が、静まり返った室内に響く。
「……ですが、貴女にそれ以上に残酷な現実を言います。兄様の隣(正妻の座)には、別の女性が座ります。貴女がこれからどれほど血を吐くような努力をして、生家を裏切り、実務の泥を被ったとしても……貴女は『側室』に過ぎず、一生、兄様の一番にはなれない。それが、身分と資本が支配する盤面の絶対ルールです」
その言葉が落ちた瞬間。ティナの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
内務省の薄暗い書庫で、いつか王子様が迎えに来てくれると信じて耐え抜いてきた。その甘く、フワフワとした「初恋の熱」が、冷徹な政治的現実の前に完全に冷え、焼け落ちていくのを感じた。
一番にはなれないという絶望。
リーゼロッテは、初恋を無残に打ち砕かれた少女に対し、最後の選択を突きつけた。
「……恐ろしいなら、この自白書を持って内務卿の元へ駆け込みなさい。私一人が、断頭台に上がります」
ティナは震える手で、卓上の自白書に触れた。この紙切れ一枚で、彼女は修羅の道から降り、元の安全な令嬢としての生活に戻ることができる。
だが。初恋という幻想が完全に死に絶えた後、ティナの胸の奥底から湧き上がってきたのは、絶望でも恐怖でもなく――極めて冷徹な、自らの置かれた『現実への憎悪』と、目の前の王女に対する『圧倒的な共鳴』であった。
ティナは自白書を手に取ると、一切の躊躇なく、傍らで燃え盛る暖炉の火へとそれを投げ捨てた。
「っ……ティナ……?」
「……一番の座など、最初から私のような凡才には分不相応な夢でした」
羊皮紙が灰へと変わっていくのを背に。
ティナは極めて理知的な、実務官僚としての冷たい瞳で、王女リーゼロッテを見つめ返した。
「リーゼ様。私が内務省の地下で、毎日何をさせられているかご存じですか? ……冬を越せない平民のための『救済麦の給付帳簿』の改竄です」
ティナの口から、中央貴族が日々行っている生々しい腐敗の実態が語られ始めた。
「父上たち特権貴族は、国庫から出た救済用の麦を中抜きし、裏で高値で売り捌いて懐を潤しています。そして帳簿の辻褄が合わなくなると、私のような末端の文官に偽造書類を作らせる。もし不正が監査でバレそうになれば、実務を担当した平民出身の官僚を『横領犯』に仕立て上げ、責任をすべて押し付けて物理的に首を刎ねるのです」
利益は上が独占し、泥を被る実務と失敗の責任は、すべて下の者に押し付けられる。それが、人治国家の枢密である内務省の日常であった。
「……私は、あの理不尽なシステムが憎い。懸命に数字を合わせ、実務を回している者たちが使い捨てにされるこの国が、心底嫌いでした。……ですが、リーゼ様」
ティナは一歩、リーゼロッテへと歩み寄る。
「この一年、暗号を通じた裏のやり取りの中で、貴女は違った。私たちが陣営の資金を内務省から密かに迂回させる危険な帳簿操作を行った時、貴女は必ず『最終承認者:リーゼロッテ』の暗号印を書類の末尾に刻ませましたね」
「……ええ。万が一内務省の監査が入った時、トカゲの尻尾切りで末端の貴女が消されないよう、最終的な書類の責任の所在を、王族である私に帰属させるための防壁ですわ」
「そうです! 貴女は、私が被る泥(リスク)を正確に把握し、いざという時のすべての責任を、絶対安全な高台からではなく、ご自身の首を懸けて被ろうとしてくださっていた!」
ティナの瞳に、強い熱が帯びる。
実務を下の者に押し付け、責任から逃げ続ける父親たちの醜悪さ。それに対し、現場の泥臭い努力を評価し、自らが矢面に立って責任を負うリーゼロッテの『為政者としての美しさ』。
白馬の王子様の優しい言葉などではない。この一年間、危険な実務を通じて交わされた「確かな責任の共有」こそが、ティナの心を完全に射抜いていたのだ。
「そして今夜も、貴女は私のような一介の文官のために、ご自身の命で責任を取るという行動を示された。……こんな美しい世界が創れるのなら、私が殿下の一番になれるかどうかなんて、どうでもいい」
それは、ティナの忠誠がリュートから完全に離れ、リーゼロッテの『上に立つ者が責任を負うという思想』へと明確にベットされた瞬間であった。
「私は武力も資本も持ち合わせていません。ですが、内務省の深奥で、中央貴族どもが隠している数十年分の不正の記録、賄賂の証拠、裏帳簿……そのすべてを抜き出し、この腐った国を完全に破壊するための『致死の弾薬』を精製し続けることはできます」
ティナは完璧な淑女の礼をとり、極めて優秀な官僚として言い放った。
「白馬の王子様など、もう必要ありません。……リーゼ様。貴女がその命を懸けて、実務者が報われる理にかなった法治国家を創るというのなら、私の命と、私が握る内務省の全情報(帳簿)は、永遠に貴女のものです。どこまでも貴女の影に潜み、中央貴族どもの喉元を内側から食い破りましょう」
その凄絶で、極めて論理的な覚悟の言葉を聞き――。
リーゼロッテの顔から、これまで完璧に張り付いていた「冷徹な王女」としての氷の仮面が、ふっと音を立てて崩れ落ちた。
『……ああ。兄様でも、ルリカでも、ルナリア様でもない』
リーゼロッテの瞳の奥底から、熱いものが込み上げてくる。
これまで彼女が宮廷で得てきた称賛や成果は、政略結婚の回避にせよ、外交の場での立ち回りにせよ、常に背後にいるリュートの知略や、ルナリアの慈愛、ルリカの武力という『絶対的な庇護(虎の威)』があってこそのものだった。周囲が評価していたのは、リーゼロッテ個人ではなく、彼女の背後にいる「陣営の力」に過ぎない。
だが、目の前にいる同い年の少女は違う。
ティナは、他の誰の影も介さず、ただ暗闇の中で泥まみれになりながらも責任を負おうと必死に足搔いていた『リーゼロッテ個人の努力』だけを見て、その思想を評価し、命を預けると言ってくれたのだ。
「……ありがとう、ティナ」
リーゼロッテの口から紡がれたのは、計算高い政治的な台詞ではなく、声の震えすら隠しきれない、十四歳の少女としての純粋な感謝だった。
彼女はゆっくりと歩み寄り、完璧な淑女の礼をとるティナの両手を、自らの手でぎゅっと強く握りしめた。
「今まで、私は兄様やルナリア様たちに守られてばかりで……私の評価はいつも、背後にいる彼らの力込みのものだったわ。だから、貴女が……私個人の戦いを見て、私自身を選んでくれたことが……本当に、涙が出るほど嬉しいの」
冷たい政治の盤面で、初めて自らの足で立ち、自らの手だけで勝ち取った「真の理解者」。
リーゼロッテの金色の瞳には、安堵と歓喜の涙が微かに滲んでいた。
「ええ……信じますわ、私のティナ。我々の理想の道行き、その最も暗い泥の部分を……貴女に託します。これからは貴女が、私の初めての、そして最高の同志(パートナー)よ」
王女からの、虚飾をすべて捨て去った純粋な感謝と信頼の言葉。
それを真正面から受け止めたティナもまた、かつての気弱な令嬢の顔ではなく、共に国家を引っくり返す同志としての、美しくも不敵な笑みをこぼした。
「はい、リーゼ様。……ふふっ、雲の上の白馬の王子様より、共に泥を被ってくださる貴女のほうが、ずっと素敵なお方ですわ」
「……ふふ、兄様が聞いたら傷つくかもしれないわね」
薄暗い部屋の中、燃え盛る暖炉の光が、固く手を握り合う二人の少女の横顔を赤く照らし出していた。
初恋という甘い幻想は死んだ。だがここに、互いの努力と責任を正当に評価し合い、中央貴族の首を静かに絞める恐るべき『共犯者たち』が、確かな産声を上げたのである。