リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 暴落する市場と、風見鶏の選別(インサイダー)
それは、王都の経済圏を支配していた中央貴族たちに対する、実体を持った『暴力』の始まりであった。
南の次期公爵ライオネルから非合法な裏ルート(海路)を通じて引き渡された大量の食料が、東の海運組合の船団によって、王都の港へ怒濤のごとく荷揚げされる。陸路の関所を完全に迂回し、市場へと直接流れ込んだ暴力的なまでの圧倒的「供給」。
特権商人と保守派貴族たちが意図的に流通を絞り、価格を高止まりさせて暴利を貪っていた『人工的な飢餓の盤面』は、この瞬間、完全に崩壊した。
供給過多に陥った王都の穀物相場は、雪崩を打って大暴落を引き起こす。
倉庫に小麦を溜め込み、さらに高値で売り抜けようと皮算用をしていた商人たちが抱える在庫の価値は、一夜にしてただの紙屑へと成り果てた。
王都中が阿鼻叫喚の恐慌状態に陥る中。東の海運組合の隠れ家では、優雅なティータイムの傍らで、極めて冷酷な「利益の確定」が行われていた。
「ねえ、アイリス様」
新たな魔導具の図面から顔を上げたヴィオラが、卓上にうず高く積まれた『売買契約の証文』を整理しているアイリスに向かって尋ねた。
「殿下が南から麦を大量に運び込んで、王都の相場をぶっ壊したのは分かるわ。でも、相場が『暴落』しているのに、どうして貴女がそんな天文学的な利益を出せるの? 普通、商売って『安く買って、高く売る』ものでしょう?」
転生者であるヴィオラにとっても、暴騰する前に買い占めるならともかく、価格が底抜けに落ちていく中で巨利を得るという現象は直感的に理解し難かった。
アイリスは手を止め、優雅に扇を広げた。
「ええ、ヴィオラ様。商売の基本はご指摘の通りです。ですが、資本市場においては『時間の経過』もまた、価格を操作する変数となります。……私は今回、麦を『手に入れる前』に売りましたの」
「手に入れる前に……? ああ、なるほど。『先渡取引(空売り)』ですわね、アイリス様」
為政者として実務と経済を学んでいるリーゼロッテが、紅茶のカップを置きながら即座にそのロジックを看破した。アイリスは満足げに頷く。
「ご名答ですわ、リーゼ様。……数日前、王都の麦の価格が最高値に達し、商人たちが『価格はまだまだ上がる』と盲信して熱狂していた時のことです。私は彼らにこう持ちかけました。『数日後、今の最高値である金貨十枚より少しだけ安い、金貨九枚で大量の麦を卸しましょう』と」
アイリスの冷徹な声が、室内に響く。
「……なるほど」と、ヴィオラが図面の端を指先で弾いた。「商人たちからすれば、数日後には相場が金貨十一枚や十二枚に上がると思い込んでいるんだから、金貨九枚で確実に仕入れられる契約は喉から手が出るほど欲しいわよね」
「ええ。彼らは喜んで『数日後、いかなる事態が起きようとも金貨九枚で買い取る』という絶対の証文にサインしました。……私自身は、その時点では麦を一粒も持っていない『空荷』の状態で、ですわ」
その言葉の意味を完全に理解し、ヴィオラは呆れたように息を吐いた。
「そして今日、南からの大量流入によって市場はパニックを起こし、麦の価格は金貨一枚にまで大暴落した……」
「そうですわ。ですから私は今朝、紙屑同然となった金貨一枚の麦を市場の底値で買い集めました。そして、先ほどの商人たちに証文を突きつけ、事前の契約通り『金貨九枚』で強制的に買い取らせたのです」
アイリスは、扇の奥で氷のような微笑を浮かべた。
「商人は市場で金貨一枚で買えるゴミを、私から金貨九枚で買わされる羽目になって即座に破産。私は差額の『金貨八枚分』を、何のリスクも負わずに丸儲けいたしました」
情報を持たぬ者が強欲に駆られ、自ら死刑執行書(契約)にサインする。
完全に合法でありながら、あまりにも無慈悲な資本の暴力。ヴィオラは肩をすくめた。
「……エグいわね。自分で自分の首を絞める縄を、ご丁寧に高値で買わせたわけだ」
「ですが、ヴィオラ様。論理の女神と謳われるアイリス様が、単なる資金稼ぎのためだけにこのような手間をかけるとは思えませんわ。……本当の狙いは、別にあるのでしょう?」
リーゼロッテの鋭い問いかけに対し、アイリスは手元にある分厚い貴族たちの名簿を引き寄せた。
「ご慧眼ですわ、リーゼ様。……暴落による利益など、ただの副産物に過ぎません。私の真の目的は、このマクロ経済の波を使った『風見鶏の選別』です」
「選別?」
「ええ。私は手駒を使い、ある特定の層にのみ、今回の暴落のインサイダー情報を事前に漏洩させておりました。それは、殿下が立ち上げた海事組合の将来性にいち早く目をつけ、出資や同調の姿勢を見せていた目ざとい一部の貴族たちですわ」
アイリスは、名簿の一部に冷酷なまでに事務的な筆致でチェックを入れていく。
「情報を流した十二名のうち、八名が私の意図を正確に読み取り、即座に手持ちの在庫を売り払って損失を回避いたしました。……彼らは『合格』です」
王家への忠誠や旧来の利権などという無価値な幻想(ルール)に縛られず、もたらされた「情報の真偽」を自らの頭で精査し、利益の匂いを嗅ぎ取って即座に行動(損切り)できる者。
アイリスは彼らを『先が読める有能な風見鶏(いずれ殿下の覇道にすり寄る実利主義者)』として高く評価し、陣営に恩恵をもたらす「新しい貴族社会の派閥」の初期メンバーとして明確に色分けをした。
一方で、情報を得ていながら既存の利権に固執し、逃げ遅れて破産した者、あるいはそもそも海事組合の価値を理解できず、恩恵の対象にすらならなかった愚鈍な保守派貴族たち。
アイリスの羽根ペンが、彼らの名簿に一本の太い斜線を引いた。
「変化に対応できない硬直した資本(古い貴族)は、市場から退場するのみ。……彼らは、いずれ殿下が玉座を奪う際の『合法的な粛清(捧げ物)』として、せいぜい有効活用させていただきましょう」
アイリスの瞳に宿っているのは、資本と情報という「実利の篩」を使って人間を容赦なく選別し、来るべき国家転覆の後に立ち上げる『新体制の派閥設計図』を緻密に描き出す、極めて冷徹な支配者の顔であった。
リュートが南で仕掛けた物理的な暴落の波を、アイリスが東の資本の論理で完璧に増幅させ、旧体制の陣地を内側から切り崩していく。
実力と資本のみが支配する経済戦が、ここに幕を開けたのである。