リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 嵐の予測とカイルへの特命
議会での苛烈な法廷闘争から帰還したリュートは、隠れ家の執務室のデスクに腰を下ろした。
無傷での完全勝利。だが、リュートの表情に慢心はなく、むしろ盤面のさらに先を見据える冷徹な思索の色が濃く表れていた。
「……兄様」
そこへ、リーゼロッテが静かな足取りで近づき、数枚の精緻な書類をリュートのデスクに滑らせた。
「先ほどの議会で兄様の刃を躱した若き官僚――彼が次にどう動くかを見越して、事前にお渡ししておきたい資料がありますわ」
「これは?」
「第一王子派に属する中央貴族の家門に埋もれている、実務能力に長けた優秀な子弟たちのリストです。親の威光に隠れがちですが、実際に領地経営や実務の泥を被って回している者たちの、生々しい評価(データ)が記されています」
リュートが目を落とすと、そこには家柄や身分といった無価値な装飾を一切削ぎ落とし、個人の処理能力や論理的思考力、危機管理能力だけを客観的に抽出した完璧なリストが羅列されていた。
「私個人が全責任を負って運用している『絶対の腹心』からの情報です。中央のあらゆる裏帳簿や人事記録にアクセスできる、最高の情報庫が弾き出した正確な数値ですわ」
リーゼロッテは胸を張り、一人の為政者としての誇りに満ちた優雅な笑みを浮かべた。
これまで兄の用意した盤面の上で動いていた彼女が、自らの手と責任だけで獲得した確かな「力」。その誇らしげな同志の姿に、リュートは確かな成長を認め、満足げに口角を上げた。
「素晴らしい。君の情報庫の有能さと、それを完璧に使いこなす君の手腕に感謝するよ、リーゼ」
「光栄ですわ」
リュートは改めて書類に目を落とし、議場での光景と照らし合わせて冷徹な分析を下す。
「……今日の議会で見せた異常なまでの判断速度。あのエドワルドという男は、極めて優秀な『調整型の官僚』だ。感情で動く老害たちとは違い、組織の損害を最小限に抑える術を完全に心得ている。……彼は間違いなく、グラクト兄上の地に落ちた威信を回復させるための手を打ってくる」
「どのような手でしょうか?」
「保守派の官僚が考える典型的な『品位回復』だ。派閥とは、何よりも『数の論理』によって成り立つ。今回暴落を招いた中抜き貴族たち(マイナス)を切り捨てるのが一番手っ取り早く見えても、それは自らの手足を切り落とし、派閥の力そのものを削ることを意味する。だから、保守派の人間である彼に、組織の血を流すという過激な手段は『選べない』」
リュートは、論理と組織論に基づいた極めて合理的な予測を立てる。
「おそらく、民の不満から目を逸らすための大々的な催し物(祭典)や、一時的な給付金など、『プラスの提案』を兄上に進言して盤面を上書きしようとするはずだ。……その動きに合わせて、我々も外部に対する『公式見解』を徹底しておく必要がある」
リュートはそこで一度言葉を切り、黒髪から覗く真紅の瞳を静かに細めた。
「今後、王宮やエドワルドが接触を図ってきた際、我々の建前はあくまで『今回の手痛い敗北から、愚かな兄上に為政者としての痛みを学んで成長してもらいたかった』だ」
「なるほど。あくまで身内を想う『厳格な弟の教育的指導』というわけですわね」
「ああ。あの有能な官僚のことだ、内心では我々のそんな建前など微塵も信じないだろうが……それでも、我々が『王家を重んじる枠組み』の中で動いていると彼に誤認させることができれば、今後の盤面はさらに操作しやすくなる」
真の目的(旧体制の完全な破壊)を隠蔽し、敵の有能な参謀に対して高度な印象操作を仕掛ける。その冷徹な外交戦略を共有した後、リュートは部屋の隅で控えていた巨軀の側近、カイルを呼び出した。
「だが、彼らがどうごまかそうと、今回の暴落で全財産を失った特権貴族たちが破産したという事実は変わらない。カイル、海運組合の本部へ向かい、警備の全権を握れ。……近日中に、保守派に見捨てられ、資金繰りがショートした連中が、我が組合にかけていた失業保険の不当な適用や損失の補填を求めて泣き喚きながら押し寄せてくるはずだ」
「はっ」
「身分を振りかざそうが、例外なくすべて追い返せ。『相場の暴落による投機の失敗は自己責任であり、当組合の保障する家職喪失の要件には該当しない』と法的に突っぱねろ」
一切の情を挟まない防衛の指示。だが、リュートはそこで、リーゼが持ち込んだリストを指先で軽く叩いた。
「……ただしだ、カイル。リーゼの腹心が構築したこのデータが示している通り、親の負債に巻き込まれて家を失い、路頭に迷うことになった貴族の子弟たちが、必ずその絶望の群れの中に紛れ込んでいるはずだ」
「……」
「無能な親とは違い、事態を正確に把握し、無価値なプライドを捨てて『下働きでもいいから雇ってくれ』と頭を下げるまともな実務能力を持つ者がいれば。そいつらだけは、恩を着せてお前の部下(末端従業員)として拾い上げろ」
リュートはカイルを真っ直ぐに見つめ、実力主義の陣営としての絶対のルールを告げる。
「我が陣営は、血統や過去の栄光などという無価値なものは一切見ない。個人の『実力』と『意思』のみを評価すると、お前の手で彼らの骨の髄まで叩き込んでやれ」
自身もまた、理不尽な社会の底辺で腐りかけていたところを拾い上げられた過去を持つカイル。
彼は主のその命令に込められた、極めて合理的でありながらも深い慈悲の思想を誰よりも正確に理解し、獰猛で頼もしい笑みを浮かべた。
「……御意。使える者は泥水からでも掬い上げ、俺の部下として徹底的にしごき抜いてみせます」
カイルが深く頭を下げ、防衛と人材登用の任に就くべく部屋を後にする。
官僚の限界を見切った知将と、独自の独立を果たした妹。二人が仕掛けた冷徹な搾取の盤面が、静かに回り始めていた。