リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 知将の反省と絶対の盾
エドワルドが恭しく一礼して離宮を去った後。
執務室の奥、隠し部屋の扉が開き、足音を忍ばせて一人の少女が現れた。アイリス・ルーナ・オルディナである。
税務や物流の実務を根底から支え、リュートの思想を対等な視座で理解する彼女は、普段の悠然とした笑みを僅かに潜め、リュートを見遣った。
「……お帰りになりましたね。それにしても、見事なまでに手柄を強奪されていきましたが」
アイリスの問いに対し、リュートは執務デスクの上の書類を乱暴に指先で弾き、深々と、苦々しい溜息を吐き出した。
「ああ。完全に踊らされたよ。今回は僕の負けだ」
その声には、先ほどまでの余裕のある建前は微塵もなく、自身の計算を狂わされた悔恨が滲んでいた。
「僕はあの特権状を撒き餌にして、特権貴族どもから物理的な暴力という選択肢を奪い、議会での『法廷闘争』へと引きずり込むつもりだった。法と論理で彼らを縛り上げ、確実に破産させるための罠を張ったんだ」
「ええ。成文法と契約に基づく盤面としては、隙のない布陣でした」
「……だが、エドワルドは法理の土俵にすら上がらなかった」
リュートは己の未熟さを嘲笑うかのように、自嘲気味に息を吐いた。
「僕は彼を、貴族院議長を輩出するカルネリア家の人間だからという理由で、事前の根回しを重んじる『調整型の官僚』だと高を括っていた。彼個人の冷徹な実力ではなく、家柄というフィルターで彼を推し量ったんだ」
リュートはギリッと奥歯を噛み締めた。その深紅の瞳には、敵への警戒以上に、己の矛盾に対する強い自己嫌悪が渦巻いていた。
「血統による人治国家を破壊し、個人の実力(ルナリアの教え)を重んじるはずの僕自身が、この国の腐った法則に当てはめて彼を見誤った。……完全な僕の失態だ」
「ええ。リュート様らしからぬ、致命的な偏見でしたね」
アイリスは一切の慰めを排し、容赦なく同意した上で、次なる分析を口にした。
「エドワルド・シーン・カルネリア。彼は、家柄という枠組みを超え、この国における『品位』という名の理不尽な暴力を、最も合理的な手段として冷徹に使いこなす『政治家』です」
「ああ。だからこそ、僕の法理による反撃を封じるために、一切の交渉を省いて『王家の決定』という事後報告に逃げた。実に見事な政治的判断だ」
局地戦において、自分は完全にエドワルドという個人の力量に出し抜かれた。その事実を冷徹に受け止め、リュートは脳内の盤面を再構築していく。
「……だが、ただで奪われたまま終わるつもりはない。結果として、最悪の盤面ではないからな」
「と、言いますと?」
「海運組合の成果が『次期国王グラクトの指示』として公式に記録された。……つまり、今後、既存の陸路利権を握っている連中が僕たちの流通網を潰そうと手を出せば、それは自動的に『次期国王の事業に対する反逆』とみなされる」
リュートの言葉の真意を理解し、アイリスの口元にようやく悠然とした笑みが戻る。
「なるほど。手柄を明け渡した代償として、次期国王の威光という『絶対の盾』を手に入れたと。……腹立たしい結果ですが、実務上はこれ以上ない隠れ蓑ですね」
「ああ。それに、僕がエドワルドに言った『兄上の成長』に対する期待は……牽制のための建前であると同時に、僕の『本心』でもあるんだ」
リュートは立ち上がり、窓の外、王都の中心にそびえる本宮を見遣った。
「僕が創り上げるのは、『成文法による法治国家』という絶対のルールだ。……もし兄上が、品位という特権を捨て、法の下に君臨する王としての器へと成長してくれるのなら、僕は喜んでこの手柄を彼に捧げ、共に歩もう。ルナリアが教えてくれた『寛容』とは、そういうことだ」
己の過ちを認め、実利を拾い上げ、それでもなお国家の未来を俯瞰する。その瞳には、血統の破壊にのみ執着する暗い復讐心は消え、為政者としての静かな光が宿っていた。
「……ですが、もしグラクト殿下が、最後まで『人治の暴力』に縋り、法を拒絶するようであれば?」
「その時は、この盾(兄上)ごと、王家というシステムを盤上から叩き割るだけさ」
法治国家という実利が成るならば、体制の形にはこだわらない。
二人の知将は、冷え冷えとした離宮の中で、エドワルドという新たな政治家の存在と、自らの未熟さを盤面に刻み込みながら、静かに次なる一手を研ぎ澄ませていた。