リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 武人たちの絶望(アイギス公爵の観測)
第一王子グラクトの威信回復の総仕上げとなる『大オセロ大会』。
王都の中央広場に特設された巨大な会場は、没収された貴族の財産から捻出された豪華な装飾と、熱狂する平民たちの歓声によって、文字通り「光の盤上」と化していた。
会場の最も高い位置に設けられた特等席。そこには、次期国王としての余裕を漂わせる威風堂々たるグラクトと、その隣で(エドワルドの命令により)不機嫌を隠そうともせずに座る協会長ヴィオラの姿があった。
だが、その華やかな表舞台の熱狂から完全に切り離された、会場の薄暗い死角。
第二王子リュートは、十四歳となったその春、深紅の瞳を静かに細め、来賓席の最前列に座る『ある一人の男』を観察していた。
北の絶対的武力、アイギス公爵。
王妃マルガレーテの父であり、国家の軍事を一手に担う北の武神。豪奢な式典の場にあって、彼だけは一切の装飾を持たない実戦用の軍服を纏い、岩のように微動だにせず盤面を見下ろしていた。
「……カイル。ルリカ。お前たちから見て、あの男はどう見える?」
リュートは、背後に控える己の陣営の「双剣」へと静かに問いかけた。
平民上がりで数多の死線を潜り抜けてきた歴戦の騎士カイルと、ルナリアから引き継いだ離宮の絶対的な盾にして、純粋な殺意の専門家であるルリカ。
リュートが最も信頼する二つの武力は、アイギス公爵を直視したまま、完全に沈黙していた。
「……」
やがて、カイルの額から一筋の冷や汗が流れ落ち、ひどく掠れた声が絞り出された。
「……化け物です。俺が王都の裏で束ねている孤児院の兵やならず者を総動員して、完璧な包囲陣と罠を敷いたとしても……あの人一人に、正面から全部隊をすり潰される。戦術や数の次元にいない」
「……」
「隙がないとか、そういうレベルじゃない。あの男の周囲だけ、物理的な空間の密度が違う。……俺の経験則が、あんな生物には絶対に関わるなと悲鳴を上げています」
実直で肝の据わったカイルに、戦う前から完全な敗北を宣言させるほどの理不尽な重圧。
リュートが視線を移すと、普段はいかなる窮地でも表情を変えないルリカでさえ、手首に仕込んだ暗器の柄を握る指先を僅かに震わせていた。
「ルリカ、お前でも無理か」
「……はい。あれは人ではなく、意思を持った『城塞』です」
ルリカは氷青の瞳を細め、殺意の専門家としての極めて冷徹な演算結果を口にした。
「背後から完全に気配を絶って急所を狙ったとしても、私の刃では、あの男の喉笛の薄皮一枚すら斬り裂く前に腕を折られるでしょう。……殿下。あれは、理屈や盤面の策でどうにかなる生き物ではありません」
沈黙。
華やかな歓声が響き渡る会場の死角で、リュートは息を呑んだ。
これまで彼は、前世の法曹知識と論理的な盤面操作で、王宮の大人たちを心理的に支配し、エドワルドのような知将たちと渡り合ってきた。
だが、今目の前に座っている北の武神は、そういった「言葉」や「法律」、あるいは「経済」といった盤面のルール(理屈)を、物理的な暴力一つで完全にねじ伏せることができる存在なのだ。
『……エドワルドの言う通りだった。僕は、己の盤面に酔い、致命的なリスクを見誤っていた』
もし、東のオルディナ家の莫大な資本と『関税免除』という手土産だけを持って、あの猛獣の檻(交渉の席)に足を踏み入れていればどうなっていたか。
帳簿の数字と小賢しい理屈を並べ立てた瞬間、あの岩のような拳で物理的に首をへし折られて終わっていただろう。
『これが、北の最前線で命を削り続けている「本物の死のリスク」……!』
離宮陣営の双剣が戦う前から完全な敗北を認めるほどの圧倒的武力。
リュートは、深紅の瞳に冷たい恐怖と、そしてそれ以上の強烈な『為政者としての熱』を宿し、アイギス公爵の背中を網膜に焼き付けた。
「……よく分かった。二人とも、見立てを感謝する」
リュートは静かに踵を返した。
理屈(法)で縛れないのなら、どうすればあの猛獣を盤面に引きずり込めるのか。その答えは、生半可な机上の空論では決して出ない。
大オセロ大会の熱狂を背に、リュートは確実な「死の重み」を背負いながら、自らの隠れ家へと向かう。そこには、東の資本を背負うアイリスと、まだ本物の恐怖を知らない温室育ちの少年、テオドールが待っているはずであった。