リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『品位の道化2』

2 歴史の真実と、テオの完全なる敗北

 

 大オセロ大会の喧騒から遠く離れた、王都の裏路地に潜む隠れ家の奥室。

 アイギス公爵の観測を終えて帰還したリュートは、東のオルディナ公爵家の長女アイリスと、次期当主であるテオドールをその場に呼び出していた。

 部屋の隅には、離宮の盾であるカイルとルリカが、影のように静かに控えている。

 

「……建国時、東のオルディナが北のアイギスを裏切り、王家に膝を屈した歴史的理由。その『真実』について話そう」

 リュートは、分厚い古文書の写しを机の上に滑らせた。それは彼が内務省の地下書庫で、独自の法曹的視点から過去の兵站記録を紐解き、導き出した冷徹な演算結果であった。

 

「歴史書には、東が金と特権に目が眩んで北を見捨てたとある。だが、当時の東の兵站局の記録によれば、東は『あえて』真っ先に泥を被り、降伏したんだ」

「あえて、ですか……?」

 テオドールが戸惑ったように問い返す。東の人間にとって、北を裏切った歴史は数百年にわたる拭い難い汚点であり、負い目であった。

 しかし、リュートは深紅の瞳に理知的な光を宿し、残酷なまでの地政学的真実を突きつけた。

 

「北のアイギス領のさらに北には、魔力の濃い森が広がり、そこに棲まう獣たちは強力な魔石を宿した『魔物』として常に人里を脅かしている。アイギス公爵家は、その人類の防波堤だ」

 リュートは地図の北側を指先でトントンと叩いた。

 

「もしあの時、東が北に資金と物資を供給し続け、王家と全面戦争に突入していればどうなっていたか。……いずれ東の流通網は完全に封鎖されて干上がり、補給を断たれた北のアイギス軍も、王家の大軍によって完全にすり潰されていただろう。そうなれば、誰が北の国境で魔物を食い止める?」

 アイリスが、僅かに息を呑んだ。極めて頭の回転が速い彼女は、すでにリュートの論理の行き着く先を理解していた。

 

「東の先人たちは、王家との戦争による『共倒れ』という最悪の盤面を回避するため、あえて自らが『裏切り者の守銭奴』という汚名を被り、真っ先に白旗を上げた。……戦争を強制終了させることで、王家の軍がアイギス軍を殲滅する大義名分を奪い、北の防衛力(人類の盾)を無傷で存続させたんだよ」

 それは、東のオルディナ家が数百年間被り続けてきた「卑劣な金貸し」という汚名が、実は人類の生存圏を守るための、極めて冷徹で気高い『自己犠牲』であったという真実だった。

 

「そんな……。我がオルディナ家が、アイギス家を救うために……?」

 テオドールは呆然と呟いた。

 ずっと北の武門から軽蔑され、己の血筋にどこか負い目を感じていた十二歳の少年にとって、それは東の誇りを取り戻す劇的な真実であった。

 

「……この数百年の遺恨を清算し、アイギス公爵をこちらの盤面に引きずり込むためには、東の血を引く者が直接あの猛獣の前に立ち、この真実を突きつけねばならない」

 リュートは机に両手を突き、テオドールを真っ直ぐに見据えた。

 

「テオ。明日、私の隣であの北の武神の前に立てるか?」

 その問いに、テオドールは血色の戻った顔で力強く頷き、一歩前へ出た。

「行きます、リュート殿下。東の次期当主として、必ずこの真実をアイギス公爵に伝えてみせます。僕が、東の誇りを証明――」

「カイル」

 テオドールの勇ましい言葉を、リュートの低く、実務的な声が遮った。

 

 その瞬間。

 

 ――ギチッ。

 

 部屋の空気が、物理的な音を立てて凍りついた。

 壁際に控えていた歴戦の武人、カイル・ド・グラム。王都の裏路地を仕切り、数多の血と泥を啜ってきた彼が、一切の感情を排した純粋な『殺気』を、ただ一点、テオドールに向けて解き放ったのだ。

 

「……ッ、ぁ……!?」

 テオドールの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

 カイルは一歩も動いていない。剣すら抜いていない。ただ、「今から一秒後に、お前の首の皮を剝いで頸動脈を嚙みちぎる」という実戦の濃密な悪意を叩きつけただけだ。

 だが、温室で帳簿と数字だけを見て育ってきた十二歳の少年の体は、本能的な『死の圧』を前にして、完全に機能不全に陥った。

 

「ひ、あ……ぁ……」

 ガチガチと激しく歯が鳴る。呼吸の仕方を忘れ、肺が痙攣する。

 テオドールの両膝から力が抜け、彼は無様な音を立てて床に崩れ落ち、自らの腕を抱きしめるようにしてガタガタと震え始めた。

 

 頭では「立ち上がらなければ」と叫んでいるのに、細胞の一つ一つが死の恐怖に支配され、指先ピクリとも動かすことができない。

 前世で幾多の修羅場を潜り抜け、本物の死の圧というものを理解しているリュートは、文官としての冷徹な眼差しで、床に這いつくばる少年を見下ろした。カイルに視線で合図を送り、殺気を収めさせる。

 

「……これが、現実だ、テオ」

 リュートの声には一切の嘲笑はなく、ただ氷のように冷たい『盤面の事実』だけがあった。

 

「真実を知り、心の中で覚悟を決めることと、本物の暴力の前に立って言葉を紡ぐことは、まったく別の次元の行為だ。……明日のアイギス公爵は、今のカイルの何十倍もの致死の重圧を、ただ座っているだけでお前の脳髄に叩き込んでくる」

 床に座り込んだまま、テオドールは涙と鼻水を流し、己の致命的な弱さに打ち震えていた。

 

 誇りも、次期当主としての責任感も、圧倒的な暴力の前には何の役にも立たなかった。ただ恐怖で漏らすことしかできない、無力でちっぽけな子供。それが今の自分の「実力」であった。

 残酷なまでの敗北。

 東の次期当主は、北の武神の前に立つ権利すら、自分にはまだないのだという『本物の絶望』を、冷たい床の上で嚙み締めていた。

 

 

 

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