リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 大会の裏側:凍てつく殺意と「品位の道化」
大オセロ大会の会場裏。表の熱狂的な歓声が壁越しに響く中、大会の運営幹部として腕章を巻いたリーデル・ソリュ・セラフィナ(十四歳)は、得意満面でふんぞり返りながら通路を歩いていた。
「平民共の誘導が遅い! もっと手際よく動かせ! 私の完璧な指揮に泥を塗る気か!」
特権階級の傲慢さを煮詰めたような怒声を張り上げるリーデル。
彼は、かつて帝国使節団の事件において、ルリカをリーゼの護衛に縛り付けるよう進言し、結果的にルナリアを孤立させて死に追いやった『最大の元凶』の一人である。しかし本人にはその自覚など微塵もなく、ただ己の血筋と派閥での地位を誇示することしか頭にない、空っぽの権威主義者であった。
そんなリーデルが角を曲がった先で、お忍びで観覧に来ていた一人の少女と遭遇した。
「おや……? これはこれは、リーゼロッテ王女殿下ではございませんか」
離宮の王女、リーゼロッテ(十二歳)。
そして彼女の背後には、護衛のルリカと、内務卿の娘であることを隠して付き従うティナの姿があった。
「このようなむさ苦しい会場の裏側にまで足を運ばれるとは。女性には、この高度な盤上の戦術など退屈でございましょう?」
リーデルは、六年前のお茶会で彼女を「知性を持たない従順な人形」として踏み躙った時の優越感をそのまま引きずり、薄ら笑いを浮かべて話しかけた。
「殿下は無理に教養など持たれずとも、ただそのように美しく微笑んでおられればよろしいのですよ。それが女としての『品位』というものですからな」
――その瞬間。
通路の空気が、絶対零度に凍りついた。
「…………」
リーゼの背後に控えていたルリカの氷青の瞳から、一切の感情が消失した。メイド服の袖口に隠された指が、音もなく暗器の柄に深く食い込む。
愛する育ての母を死に追いやった万死に値する愚物が、今また、自分が命に代えても守ると誓った『大切な妹』を平然と侮辱したのだ。その胸中には、過去の業火と今の怒りが入り混じった純粋な殺意が限界まで膨れ上がっていた。
同時に、ルナリアの死後にリーゼの腹心となったティナもまた、普段の小動物のような怯えを完全に消し去り、その瞳孔を真っ黒に広げてリーデルの喉笛を見つめていた。彼女にとって過去の因縁など関係ない。ただ、己の絶対的な主君であるリーゼを愚弄したこの男を、今すぐ物理的に解体してやりたいという『狂信的な殺意』だけがそこにあった。
二つの異なる猛烈な殺意が、今にもリーデルの首を狩らんと致死の初動へ筋肉を跳ねさせた。
だが。
――パチン。
リーゼが優雅に扇を広げたその一音で、背後の二人の狂犬は、ピタリと動きを止めた。
リーゼは振り返ることもなく、ただその小さな背中から放たれる『絶対的な王族の威圧』のみで、暴走しかけた殺意を完全に封じ込めたのだ。
『ここでこいつを殺せば、お兄様の計画が崩れる。……私個人の復讐で、兄様とルリカの未来を汚すわけにはいかない』
リーゼは、瞳の奥に万年雪のようなドス黒い憎悪を滾らせながら、扇の下で完璧な「品位ある王女の微笑み」を形作った。
かつて六歳の頃、この男の言葉に絶望して泣き崩れた非力な少女はもういない。
「ええ、お気遣いありがとうございます、リーデル様。……ですが」
リーゼは扇をわずかに下げ、金色の瞳でリーデルを真っ直ぐに射抜いた。
「最近は『品位』の在り方を見誤り、王族への不敬を働いた方々が、次々と『物理的に首を落とされている』……とても物騒な世の中ですもの」
それは、「私に品位を説くお前自身の、王女に対する品位はどうなのか?」という論理の矛盾を突いた極めて高度な牽制であり、明確な死の宣告であった。
王族の品位を貶めた罪で大貴族が粛清されたばかりのこの王都で、一介の側近が王女を侮辱すれば、首を落とされるのは一体誰なのか。
「貴方も、ご自身の『品位』を過信して無知なまま美しく微笑んでいるうちに……いつの間にか背後から首を刈られないよう、どうか、お気をつけあそばせ?」
完璧な微笑みと共に放たれた、逃げ場のない毒刃。
しかし、己の知性を疑わないリーデルは、その言葉の裏にある「お前が不敬罪で粛清されるぞ」という致命的なニュアンスに全く気づけなかった。彼はただ、リーゼが最近の粛清劇を怖がっている無知な子供だと錯覚し、間抜けに首を傾げた。
「はて? 殿下、それは一体どういう……」
「――リーデル殿。こんなところで油を売っていては困りますね」
通路の奥から、氷のような声が響いた。
第一王子の側近、エドワルド・シーン・カルネリアである。彼は眼鏡の奥の瞳を細め、冷や汗を流しながら早足で割って入ってきた。
『この愚か者が……! 相手が何を突きつけてきたのか理解していないのか!』
エドワルドの耳には、リーゼの放った致命的なニュアンスが正確に届いていた。
もしここでリーデルがさらに王女への不敬を重ね、リーゼがそれを公式に「品位の侵害(不敬罪)」として議会に訴え出ればどうなるか。あのセオリスの暴走に続き、またしても第一王子の側近が王族を害そうとしたとなれば、グラクトの威信は今度こそ回復不可能な致命傷を負う。
「表で平民たちの誘導に不備が出ています。貴方は大会幹部なのですから、直ちに向かって指揮を執りなさい」
「む……し、しかしエドワルド殿、私は今、王女殿下と――」
「直ちに、です。これはグラクト殿下のご意向でもあります」
エドワルドの有無を言わせぬ圧力と「第一王子の名」に、リーデルは不満げに舌打ちをしつつも、「では、失礼いたします」と足早に立ち去っていった。
愚物を物理的に排除した後、エドワルドは大きく息を吐き出し、リーゼとその背後の侍女たちへと向き直った。
「……ご無事で何よりです、リーゼロッテ殿下。あのような無知な者の言葉、どうかお気になさらず。後ほど私から、厳しく『身の程』を弁えるよう注意しておきましょう」
それは暗に、「これ以上の不敬は防ぐから、どうか今の発言は不問に付してほしい」という、実質的なエドワルドからの『降伏宣言(取引)』であった。
エドワルドは内心で、目の前の十二歳の少女に底知れぬ戦慄を覚えていた。
背後に控える二人の異常な殺気もさることながら、それを一瞬で制圧し、さらに「品位というルールの矛盾」を用いて、自分たち第一王子陣営の急所を的確に抉ってきた手腕。
この王女は、もはや庇護されるだけの愛らしい妹ではない。第二王子リュートと同じく、盤面のルールを冷徹に使いこなす『極めて危険な政治的プレイヤー』の一人なのだ。
そのエドワルドの警戒と評価の眼差しを受けながら、リーゼはふわりと優雅に微笑み、扇で口元を隠して言い捨てた。
「お構いなく、エドワルド様。あのような方、私にとっては……ただの『過去の汚いホコリ』でしかありませんわ。どうぞ、お好きに掃き溜めでお使いになって?」
エドワルドの取引をあっさりと吞み込んだ上で、放たれる圧倒的な見下し。
リーゼは完璧なカーテシーをして見せると、一切の未練を見せず、二人の狂犬を従えて通路の奥へと消えていった。
残されたエドワルドは、去り行く少女たちの背中を見つめながら、己の陣営が抱える「無能な味方(リーデル)」という爆弾の重さに頭を抱え、深く、重い溜息を吐き出した。
王都の光の裏側で、離宮の影たちは確実にその牙を研ぎ澄まし、盤面を侵食し始めていた。