リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『品位の道化6』

6 初対面の衝撃と、真の「品位」

 

 パレードは王都のメインストリートを進み、熱狂は最高潮に達していた。

 沿道を埋め尽くす群衆がグラクトの馬車を一目見ようと押し寄せる中、不意に人の波が大きく崩れた。

 

「わっ……!」

 押し出されるようにして、最前列にいた一人の平民の子供が、石畳の車道へと転がり出た。

 よりにもよって、歩みを進めるグラクトの巨大な馬車の、その直前である。

 

「危ないッ!!」

「止まれ! 馬を止めろ!!」

 先導していた近衛騎士たちが血相を変えて怒号を上げ、全体重をかけて必死に手綱を引き絞る。

 だが、装飾が施された重量のある馬車と巨馬の歩みは急には止まらない。甲高い嘶きと共に、巨馬が巨大な前足を天高く跳ね上げた。

 数百キロの質量を持つ鉄蹄が、転んだ子供の頭上へと、容赦なく踏み下ろされようとする。

 沿道の特等席にいた特権貴族たちは、誰一人として助けようとしないどころか、「汚らわしい平民が」「血や泥が跳ねる」と不快げに眉をひそめ、我関せずと一斉に後ずさって顔を背けた。

 その瞬間――。

 

「だめっ!!」

 群衆の影から、一人の少女が矢のように飛び出した。

 お忍びで観覧に来ていた子爵令嬢、レティシア・ラ・ハーテスである。

 彼女は、己が着飾っていた一目で高級と分かる絹のドレスが泥に汚れるのも、巨馬の蹄に踏み砕かれる致死のリスクも一切躊躇することなく、動いている馬車の直前へと身を投げ出した。

 

 そして、恐怖でうずくまる平民の子供を、その小さな体で完全に覆い隠すように強く抱きすくめたのだ。

 直後、近衛騎士の必死の制止によってギリギリで軌道を逸らされた巨馬の蹄が、彼女のすぐ脇の石畳を粉砕するほどの勢いで激しく打ち据えた。

 

 バシャッ、と。無情に撥ねた泥水が、彼女の美しい金髪と、純白のドレスを無残に汚していく。

 それでも少女は、恐怖に目を強く瞑り、肩を震わせながらも、決して腕の中の子供を離そうとはしなかった。

 馬車の上からその光景を見下ろしていたグラクトの胸に、雷に打たれたような強烈な衝撃が走った。

 

『貴族の令嬢が……己の身と体裁を投げ打って、見ず知らずの平民の盾になっただと……?』

 泥に塗れ、震えながらも弱き者を守り抜こうとする少女の背中。

 その姿は、グラクトが今まさに絶望していた「民を搾取し、泥を避ける醜悪な貴族たち」や「安全な馬車の上で保身に走る自分自身」とは対極にある、純粋な自己犠牲の姿であった。

 

 血統や特権という見栄に胡座をかくのではなく、自ら泥を被り、身を呈して弱きを守る。

 それこそが、グラクトが先ほど胸の内で渇望し、己に足りないと絶望した真の高貴さ――『ノブレス・オブリージュ(真の品位)』の、圧倒的な具現化であった。

 

   ◇

 

「剣を収めよッ!! 無礼であるぞ!!」

 グラクトの腹の底からの咆哮が、王都の空気を震わせた。

 子供と少女に剣の柄を向け、不敬を理由に物理的に排除しようとしていた近衛騎士たちが、その声にビクッと肩を震わせ、即座に直立不動の姿勢をとる。

 

 グラクトは、側近エドワルドが作り上げた「ただ美しく微笑むだけの絶対的な光」という完璧な台本を、この瞬間、完全に破り捨てた。

 豪奢な馬車の扉を自ら乱暴に押し開け、装飾された衣が乱れるのも構わず、特権貴族たちが顔を背けた泥だらけの道へと飛び降りたのだ。

 

「で、殿下!? 何を……ッ!」

 エドワルドが驚愕と焦燥の声を上げる中、グラクトの足は止まらない。

 王家の正統性を示す彼の純金のような瞳は、目の前で泥に塗れ、小さく肩を震わせている少女の背中だけを捉えていた。

『民を飢えさせ、私欲を貪り、危地となれば保身に走るのが特権貴族だと、私は心底絶望していた。だが……ここにいたのだ。己の命と体裁を泥に投げ打ち、名もなき平民を守り抜く「本物の貴族」が』

 

 グラクトは群衆が息を呑んで見守る中、泥だらけの少女と子供の前に歩み寄り、迷わずその膝をついた。

 そして、作り笑いではない、一人の人間としての優しく、そして力強い本物の眼差しを少女に向けた。

「怪我はないか、気高き乙女よ」

「っ……あ、えと……!」

 恐怖からそっと目を開けた少女は、間近に迫る第一王子グラクトの圧倒的な美貌と、彼から放たれる強烈な王のオーラに、言葉を失って顔を真っ赤に染めた。

 

 グラクトには、それが「自己犠牲を全うした無垢な少女の、王族に対する純粋な畏れと恥じらい」にしか見えなかった。彼女が自分をどのような瞳で見つめ返しているかなど、今の彼には問題ではなかった。

 グラクトは、彼女の泥に塗れた小さな手を自らの両手で包み込み、深く、誠実に頭を下げた。

 

「そなたの勇気と自己犠牲は、私のパレードを飾るどの宝石よりも美しい。我が身に代えて弱きを庇うその心こそが……ローゼンタリアの真の『品位』だ。私は、次期国王としてそなたに最大の敬意を表する」

 グラクトが自らの手で少女のドレスの泥を払い、その手を取ってゆっくりと立ち上がらせた瞬間。

 王都は、台本で用意された安っぽい称賛ではない、民衆の心からの割れんばかりの大歓声に包まれた。

 

「うおおおおッ! グラクト殿下万歳!!」

「あの令嬢も素晴らしい! 泥に塗れて民を救う、これぞ真の高貴なる方々だ!」

「王家万歳! 我らが次期国王万歳!!」

 民衆の熱狂が、地鳴りのように王都を揺るがす。

 馬車の脇で冷や汗を拭ったエドワルドは、グラクトが初めて台本を無視して見せた「自発的な王の器」を為政者として高く評価しつつ、懐の手帳を静かに開いた。

 

『自らの意志で民心を引き寄せ、盤面を完全に支配したか。見事な采配だ。……そして、あの少女。殿下の精神に作用する、極めて強力な新たな変数か。……素性を洗い、監視対象としてリストアップしておこう』

 

 一方の少女は、泥を払ってくれたグラクトの力強い手と、至近距離で浴びた彼の完璧な王の威光に完全に心を奪われ、ただ熱を帯びた金色の瞳を熱く見つめ返していた。

 グラクトは、歓声の中で彼女の手を優しく握り直しながら、己の胸の奥底に確かな熱が灯るのを感じていた。

 それは、エドワルドの手柄を盗んで神輿に乗っていた虚無感や、自己嫌悪の冷たさを完全に焼き尽くす、強烈な炎であった。

 

『……私は、ただの空っぽな道化ではない。この国にはまだ、己の身を挺して守るべき価値がある。ならば私は、彼女のような気高き者たちが胸を張って生きられるよう、血と泥に塗れてでも「真の王」にならねばならない』

 泥だらけの少女との運命的な出会い。

 

 それは、己の不甲斐なさに絶望していたグラクトを「空っぽの神輿」から引きずり下ろし、彼自身の魂に『真の王たる精神と覚悟』を叩き込む、決定的な救済の瞬間であった。

 

 

 

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