リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『北の武神1』

1 北の武神との対峙と、机上の空論の崩壊

 

 大オセロ大会の熱狂が噓のように冷え切った、王都の極秘の会談室。

 豪奢な装飾が一切排除された石造りの空間で、東の長女アイリスと第二王子リュートは、北の武神・アイギス老公爵と相対していた。

 

「……以上が、東の兵站局に残されていた過去の記録。すなわち、建国時にオルディナ家が『あえて裏切り者の泥を被り、北のアイギス軍を無傷で存続させた』という歴史的真実でございます」

 アイリスは完璧な令嬢の微笑みを崩さず、しかし東の当主代行としての確かな威厳をもって語り終えた。

 そして、リュートが組み上げた緻密な物流経路の図面と、天文学的な数字が並んだ支援確約書を机の中央へと押し出す。

 

「この真実をもって、数百年の怨念を棚上げしていただきたい。その見返りとして、我が東は北へ向けた流通網の関税を完全撤廃し、軍備維持のための莫大な資金と物資を永続的に提供いたします。……公爵閣下、どうか我が殿下の盤面に、北の誇りを並べてはいただけないでしょうか」

 歴史の真実という大義名分。そして、喉から手が出るほど欲しいはずの莫大な経済的支援。

 論理と実利、その両面から完全に退路を塞いだ完璧な交渉であった。カイルやルリカすら震え上がらせるこの猛獣を相手に、アイリスは一歩も引かずに見事な「東の誇り」を提示してみせたのだ。

 

 だが。

 アイギス公爵は、提示された莫大な数字の羅列に一瞥すらくれず、岩のように一切の表情を変えなかった。

 ただ静かに、歴戦の重みを孕んだ恐るべき眼光で、目の前の若き為政者たちを射抜いた。

 

「……北のさらに北には、魔の森があり、その先には帝国領が続く。我がアイギス領は、この国の人類を守るための防波堤だ。これまで王都の者たちが平和を享受できたのは、一体誰のおかげだと思っている?」

 地鳴りのように低く、重い声。

 リュートはその言葉の裏にある「本物の死の圧」に、背筋を氷で撫でられたような錯覚を覚えた。

 

「確かに、東のオルディナは経済を回し国を豊かにした。その恩恵でアイギスへの援助が賄えている面もある。南のヴィレノールの食糧、西のクロムハルトの魔導具も防衛には不可欠だ。……それらを否定する気は、ワシにも毛頭ない」

「ならば――」

 

「だがな、娘」

 アイリスの言葉を、公爵は物理的な重力のような威圧感で押し潰した。

 

「東の金も、南の麦も、西の魔導具も、それ自体が魔物の牙を折るわけではない。現実に、魔物の爪に腹を裂かれ、首を食いちぎられ、凍てつく大地で『人を失っている』のは、我々北の人間なのだ」

 公爵の瞳の奥に、王都の特権貴族たちへ向けたような、静かで底知れぬ蔑みが宿る。

 

「王家の騎士団も軍部も、一定期間アイギス領へ送られ、本物の戦いを学ぶ。アイギス領の重要性を理解し、家督を継げぬ嫡男以外はそのまま残ってアイギス騎士団へ編入した者も多い。……現国王すらも、王家もまた我々と共に血を流しているという事実を理解している。命の対価は、命でしか支払えんのだ」

 公爵はゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれた支援確約書を見下ろした。

 

「……ワシは別に、他の公爵家に敵対する気はない。過去の真実も、お前たちの提示する莫大な数字も、偽りではないのだろう」

「では、なぜ……」

 

「今この瞬間も、領民一丸となって『人の生存圏確保』のために血を流し、死んでいく者たちがいる。その彼らに対し、安全な王都から帳簿の数字と金だけを見せて『これで過去を水に流し、盤面に従え』と……ワシが領民に命じられるとでも思っているのか?」

 それは、法理でも経済でもない。

 

 北の大地で血を流し続ける者たちを背負う、軍事指導者としての『究極の現場の論理』であった。

 

「……モノや金で、死んでいった者たちの命を飲み込めとは言えん。ワシ自身も、死地に立つ兵の目を見て、そんな寝言は絶対に口にできん。……北の血の重さは、金では量れないのだよ」

 その圧倒的な「現場の論理」と、死線の重みを前に。

 リュートは、喉の奥まで出かかっていた『成文法による法治国家の創設』という自らの構想を、完全に呑み込むしかなかった。

 

『……語るだけ無駄だ。今の僕がどれほど完璧な法理とシステムを説こうが、彼らにとっては、血を一滴も流したことのない安全圏の子供が喚く「机上の空論」でしかない』

 文字と数字の理屈など、本物の死と直面し続ける北の氷壁の前では、ただ虚しく砕け散るだけだ。

 

 自らの盤面への絶対的な自信が、根本から叩き潰される。

 リュートは己の傲慢さを深く恥じ、一切の反論を口にできぬまま、静かに、そして完全に敗北を喫するのであった。

 

 

 

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