リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『北の武神2』

2 リュートの決断と、無力な少年の覚醒

 

 北の武神からの完全なる拒絶を受け、東の隠れ家に戻ったリュートたちは、重苦しい沈黙に包まれていた。

 

 リュートは一人、薄暗い部屋の窓辺に立ち、自らの手を見つめていた。その手は、ペンを握り、法理を練り、経済の数字を動かすための手だ。だが、アイギス公爵が背負っていた「本物の血の重さ」の前では、自分の積み上げてきた論理がいかに軽く、傲慢なものであったかを骨の髄まで思い知らされた。

 

『私は、文字と帳簿の数字だけで、彼らの流す血を知った気になっていた。……安全な王都から理屈を並べ立てて、命の対価を金で買い叩こうとしたのだ。あんな机上の空論で、領民の命を背負う武神の心を動かせることなど、到底できるはずがなかった』

 リュートは深く息を吐き出し、振り返った。その深紅の瞳には、かつてないほどの鋭く、重い光が宿っていた。

 

「……アイリス。私は、学園に入学するまでのこの半年間、北へ行く」

「殿下……?」

 扇で口元を隠していたアイリスが、わずかに目を丸くする。

 

「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。安全圏から数字を弄っているだけでは、決して北の真の重さは分からない。自ら本物の泥と血のにおいを嗅ぎ、彼らが命を懸けている『現実』をこの目で見なければ、私の構想はただの空虚な絵空事で終わる」

 リュートの決断は、狂気にも等しいものだった。第二王子という身分を隠し、一兵卒として極寒の最前線――死亡率の極めて高いアイギス領軍の末端に身を投じるというのだ。それは、為政者としての自分を一度破壊し、現場の泥から再構築するための、血を吐くような覚悟だった。

 

 その時。

 部屋の隅で黙り込んでいたテオドールが、静かに、しかしはっきりとした足取りで歩み出てきた。

 

「……僕も、行きます」

 その声には、震えが混じっていた。しかし、瞳だけは決して逃げようとしていない。

「テオドール!? 何を狂ったことを言っているのです!」

 知らせを聞きつけ、隠れ家に駆けつけていた母――オルディナ公爵夫人が血相を変えて止めに入った。

 

「貴方は東の次期当主ですよ! 殿下の真似事をして北の死地に赴くなど、絶対に許しません!」

 だが、テオドールは母の制止を振り切り、リュートの前に進み出た。

 

「母上、申し訳ありません。ですが、僕の決意は変わりません。……東のオルディナは、金と経済で国を回す『泥に塗れた盾』です。ならば、その次期当主である僕が……国境で最も泥と血に塗れている北の重さを知らなくて、どうして東の誇りを証明できるというのですか!」

「カイル」

 テオドールの勇ましい言葉を、リュートの低く、実務的な声が遮った。

 

 その瞬間。

 ――ギチッ。

 

 部屋の空気が、物理的な音を立てて凍りついた。

 壁際に控えていた歴戦の武人、カイル・ド・グラム。王都の裏路地を仕切り、数多の血と泥を啜ってきた彼が、一切の感情を排した純粋な『殺気』を、ただ一点、テオドールに向けて解き放ったのだ。

 

「……ッ、ぁ……!?」

 テオドールの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

 カイルは一歩も動いていない。剣すら抜いていない。ただ、「今から一秒後に、お前の首の皮を剝いで頸動脈を嚙みちぎる」という実戦の濃密な悪意を叩きつけただけだ。

 温室で帳簿と数字だけを見て育ってきた十二歳の少年の体は、本能的な『死の圧』を前にして、完全に機能不全に陥った。

 

「ひ、あ……ぁ……」

 ガチガチと激しく歯が鳴る。呼吸の仕方を忘れ、肺が痙攣する。

 テオドールの両膝から力が抜け、彼は無様な音を立てて床に崩れ落ち、自らの腕を抱きしめるようにしてガタガタと震え始めた。

 頭では「立ち上がらなければ」と叫んでいるのに、細胞の一つ一つが死の恐怖に支配され、指先ピクリとも動かすことができない。

 リュートは文官としての冷徹な眼差しで、床に這いつくばる少年を見下ろした。カイルに視線で合図を送り、殺気を収めさせる。

 

「……これが、現実だ、テオ」

 リュートの声には一切の嘲笑はなく、ただ氷のように冷たい『盤面の事実』だけがあった。

 

「真実を知り、心の中で覚悟を決めることと、本物の暴力の前に立って言葉を紡ぐことは、まったく別の次元の行為だ。……北の魔物やアイギス公爵は、今のカイルの何十倍もの致死の重圧を、ただそこにいるだけでお前の脳髄に叩き込んでくる」

 床に座り込んだまま、テオドールは涙と鼻水を流し、己の致命的な弱さに打ち震えていた。

 誇りも、次期当主としての責任感も、圧倒的な暴力の前には何の役にも立たなかった。

 

 残酷なまでの敗北。

 東の次期当主は、北の地へ赴く権利すら自分にはないのだという『本物の絶望』を、冷たい床の上で嚙み締めていた。

 

 

 

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