リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 アイリスの覚悟と、少年の咆哮
カイルの放った本物の殺気にあてられ、床に這いつくばったままガタガタと震え続けるテオドール。
その震えて立てない弟の前に、東の長女アイリスが、衣擦れの音すら立てずに静かに進み出た。
「……お下がりなさい、テオ。今の貴方では、北の地に足を踏み入れた瞬間に、恐怖で動けずに死ぬだけですわ」
氷のように冷たく、しかし極めて正確な事実の宣告。
アイリスは弟を一瞥したのち、リュートの方へと優雅に向き直った。その顔には、リュートの第一契約者としての底知れぬ熱情と誇りが浮かんでいた。
「リュート殿下。東の誇りと歴史の真実は、第一位の契約者たるこの私が、命に代えて盤面で証明いたしますわ」
「……ダメだ姉さんッ!」
アイリスの決意を聞いた瞬間。テオドールは床に這いつくばったまま、悲鳴のような声を上げて姉のドレスの裾にすがりついた。
「行っちゃダメだ! あんな化け物たちのところに行ったら、姉さんが……姉さんが殺されるかもしれないんだぞ! 俺の代わりに姉さんが死ぬなんて、絶対に嫌だ!」
それは、ただ純粋に、美しく優秀な姉を守りたいと願う弟としての、見苦しくも切実な家族愛の叫びであった。
だが。すがりつく弟を見下ろしたアイリスの瞳には、温かな家族愛など微塵も浮かんでいなかった。
「ええ。一歩でも間違えれば、私は殺されるでしょうね。ですが、それが何だと言うのです?」
アイリスはリュートを見つめた。
「テオ。私はね、あの夜、殿下と契約を交わした瞬間から……もしこの盤面が崩壊し、殿下と共に冷たい断頭台に登ることになったとしても、最後に彼に向かって『最高の人生でしたわ』と、心から笑って首を差し出す覚悟を決めているのよ」
アイリスの声は熱く、そして絶対的な狂気を孕んでいた。
論理と実利の果てに行き着いた極限の愛。その途中で殺されるかもしれない程度のことで、彼女の足が止まるはずがなかった。
「……ですから、『すでにリュート殿下と共に死ぬ覚悟を懸けている私』が行くのです。テオ、貴方の命は、まだ誰のためにも、何のためにも懸かっていない。そんな『軽い命』で、北の死地に立つなど……傲慢にも程がありますわ」
バサリ、と。
アイリスは扇を振り抜き、すがりついていたテオドールの手を冷徹に振り払った。
「っ……ぁ……」
姉の残酷なまでの正論と、己の命の『軽さ』を突きつけられ、テオドールは完全に言葉を失った。
自分が喚いていた「姉を死なせたくない」という言葉が、いかに覚悟のない、平和な温室育ちの子供の甘えであったかを、骨の髄まで思い知らされたのだ。
テオドールは床に顔を押し当て、己の究極の無力感と情けなさに、声を殺して慟哭した。
だが、その涙は長くは続かなかった。
ギリッ、と。彼の手が床を強く搔き毟り、その小さな体が震えながらも、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がり始めたのだ。
「……ふざ、けるな……」
血が滲むほど唇を嚙み締め、テオドールはアイリスの前に立ちはだかった。その琥珀色の瞳には、先ほどの恐怖を塗り潰すほどの、激しい怒りとプライドが燃え盛っていた。
「誰が……姉上にだけ、そんな重い荷物を背負わせるものか……! 俺は、東のオルディナの次期当主だ! 東の誇りを証明するのも、そのための血を流すのも、俺の『責任』だ!!」
殺気の恐怖に屈した自分への怒り。そして、姉を死地に送るくらいなら、自分が狂気の世界に適応してやるという凄絶な意地。
まだ細い少年の肩が、初めて「為政者としての覚悟」の重さに耐え、咆哮を上げた瞬間であった。
その姿を見て、アイリスの冷徹な資本家の顔に、初めて姉としての、そして当主としての深い信頼の笑みが浮かんだ。
「……テオドール。北の地で死んで、見苦しい骸を晒すことだけは、東の当主代行として固く禁じます。必ず、生きてその泥を持ち帰りなさい」
「……はい! 姉上!」
それは、アイリスが初めてテオドールを、ただ庇護すべき弟ではなく、「盤面を共にし、東の未来を背負う真の次期当主」として認めた、決定的な瞬間であった。