リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『北の武神6』

6 血と泥の最前線

 

 極寒の風が、容赦なく体温と体力を奪っていくアイギス領の最前線砦。

 偽名と「戦死しても一切の責任を問わない」という血判状を提出したリュートたちは、訓練らしい訓練も受けぬまま、「個人の武は各自で磨け。戦場では適材適所に連携するのみ」とだけ告げられ、即日死線へと放り込まれていた。

 

「おい新兵ども、固まるな! 散開して槍を構えろ!」

「ひっ……!」

 怒号と悲鳴、そして魔物の咆哮が混ざり合う泥濘の戦場。

 ほんの数時間前だ。冷え切った砦の食堂で、「南や東の温かいところから、よくこんな地獄に来たな」と笑いながら、リュートたちに自分の分の温かいスープを分けてくれた中年の兵士がいた。故郷に小さな娘がいるのだと、少し照れくさそうに笑って語っていた男。

 その男の首が、たった今、巨大な雪猿(スノウエイプ)の顎に食いちぎられ、リュートの目の前で赤い尾を引いて泥の中へ転がり落ちた。

 

「あ……あ……」

 テオドールが顔面を蒼白にしてその場に崩れ落ち、激しく胃液をぶちまけた。

 首を失った胴体から噴き出す生温かい血の雨を浴びながら、温室育ちの次期当主はガタガタと震え、絶望の涙を流す。

 

『これが……僕たちが安全な東で、豊かな帳簿の数字だけを見ながら「見て見ぬふり」をしてきたものなんだ……っ!』

「テオ! 止まるな、死ぬぞ!」

 ライオネルが悲痛な叫びを上げ、迫り来る魔物の爪を己の愛槍で必死に弾き返す。いつも南の太陽のように笑い、軽口を叩く余裕など微塵もない。ただ生き残るために、泥に塗れて槍を振るうことしかできない。

 

 そして、リュートは。

 飛び散った兵士の血を頰に受けたまま、完全に動きを止めて戦慄していた。

『……今年のアイギス領の死亡率は、三パーセント。……防衛線を維持するための「必要経費」』

 王都の執務室で、自分が書類の上で冷徹に計算し、処理していた「数字」。

 

 それが今、目の前で悲鳴を上げ、肉塊に変わった。

 あの数字の一つ一つには、温かいスープを分けてくれる優しさがあり、帰りを待つ家族があり、さっきまで確かに会話を交わしていた『命』があったのだ。

 己がどれほど傲慢で、血の通わない恐ろしい見下し方をしていたのか。その圧倒的な現実が、リュートの心臓を鷲摑みにする。

 

「殿下ッ! 呆けている暇はありませんぜ!!」

 リュートの背後に迫っていた魔物の腕が、鋭い剣閃によって両断された。

 返り血に染まった歴戦の騎士、カイルである。彼は嘔吐するテオの襟首を摑んで引きずり起こし、リュートの前に立って次々と迫る死の圧を弾き返していく。

 

「命の価値なんてものは、ここでは糞の役にも立たねえ! 自分の頭で考え、自分の足で立て! ここは理屈が通用する王都じゃねえんだ!」

 カイルの容赦ない怒号が、凍りついたリュートの意識を現実に引き戻す。

 

 そうだ。ここは、アイギス公爵が背負い続けている本物の地獄。

 リュートは強く唇を嚙み破り、血の味と共に己の傲慢さを飲み込んだ。そして、泥に塗れた剣を強く握り直し、自らもまた凄惨な死線の中へと足を踏み出していくのであった。

 

   ◇

 

地獄のような泥と血の日常が数ヶ月続き、凍てつく冬がようやく終わりを告げようとしていた頃。

 アイギス領の最前線砦を、予期せぬ絶望が襲った。

 冬眠期を逃れ、飢餓状態に陥った魔物の大群による、通常規模を遥かに超える夜襲。

 分厚い防衛線の一部が脆くも決壊し、リュートたちが配属されていた部隊は本隊から完全に分断され、雪原の只中で孤立した。

 

「くそっ……! 上からも来やがるぞ!」

 ライオネルが血反吐を吐きながら叫ぶ。

 地を這う白狼(スノウウルフ)の群れだけでなく、上空には巨大な猛禽の姿をした雪鳥(スノウハーピー)が旋回し、さらに遠方からは氷柱を射出する魔物までもが陣形を包囲していた。

 圧倒的な劣勢の中、テオドールが悲壮な決意で前に出た。彼なりに東の次期当主として、王都で学んだ知識で戦局を打開しようとしたのだ。

 

「僕が、土魔法で防壁を隆起させます! 『大いなる大地の――』」

 テオドールが詠唱を始め、地面に触れようと深く屈み込んだ、まさにその瞬間だった。

 

 上空から雪鳥が一気に急降下し、テオドールの無防備な首元へと鋭い鉤爪を突き立てようと迫る。さらに遠方からは、屈んで静止した彼を的とした氷柱が容赦なく飛来した。

 

「馬鹿野郎ッ!!」

 ライオネルがテオドールの襟首を乱暴に摑み、泥の中へ力任せに引き倒す。

 直後、テオドールが先ほどまで頭を下げていた空間を、雪鳥の爪と鋭い氷柱が交差して通り過ぎた。間一髪、ライオネルの愛槍が雪鳥の腹を切り裂いて追い払う。

 

「のんきに地面に手をついて詠唱なんかしてたら、壁ができる前に頭を食いちぎられるぞ!!」

「っ……! で、ですが、魔法で……」

「王都のお上品な魔法が、この速さに追いつくわけねえだろ! だいたい、杖や手から直接放つだけの射程が短い魔法じゃ、あんな空飛ぶ奴らには届きもしねえんだよ!」

 ライオネルの怒声が、テオドールに冷酷な現実を突きつける。

 

 王都の教室では「陣地構築に有用」とされる土魔法も、実戦においては『屈んで地面に手をつく』という動作自体が致命的な隙(自殺行為)となる。ましてや、手から放出されるだけの魔法では、遥か上空や遠距離から攻撃してくる敵への対空手段にもなり得ない。

 

 伝統という名で無詠唱化や射程の延長を怠ってきた「王都の魔法体系」は、泥に塗れた最前線では全くの無用の長物だったのだ。

 矢は尽き、頼みの魔法も機能しない。体力は限界を越えている。

 

 周囲を埋め尽くす数百の赤い眼光が、彼らを完全に「餌」として包囲の輪を縮めてきた。

 中央でカイルが血まみれになりながら孤軍奮闘しているが、彼一人でこの物量を支えきれるのも時間の問題だった。

 

『……ここまでか』

 リュートの脳裏に、冷たい死の予感がよぎったその瞬間。

 吹雪の向こう側から、空気を震わせる鋭い角笛の音が鳴り響いた。

 

「防衛線を押し上げろ! 一歩でも引けば、背後の民が食われるぞ!!」

 少女の、しかし戦場を支配する圧倒的な覇気と重力を伴った号令。

 直後、魔物の包囲網の背後が、凄まじい衝撃と共に弾け飛んだ。

 吹雪を切り裂いて現れたのは、精鋭の重装騎馬隊。

 

 その先頭で大剣を振るい、血路を切り開いたのは、華やかなドレスなどではなく、幾重にも重なる魔物の返り血で赤黒く染まった実戦用の重甲冑を纏う少女だった。

 

 王立学園の春休みを利用して帰郷していた、北の公爵家の孫娘。ベアトリス・ロギア・アイギス、十五歳。

 彼女は馬から躍り出ると、生き残った北の猛者たちを的確に指揮し、瞬く間に魔物の群れを分断していく。その姿は、庇護されるべき貴族の令嬢などではなく、数万の領民の命を背負う『若き女将軍』そのものであった。

 

 ベアトリスの振るう大剣が、リュートたちの目前に迫っていた魔物を両断し、重い地響きと共に雪原へ沈める。

 絶望の底に差し込んだ、苛烈で血生臭い救い。

 肩で息をするライオネルが、顔にこびりついた泥を手の甲で拭いながら、不敵に牙を剝いて笑った。

 

「……遅いぞ、援軍! 待ちくたびれて凍え死ぬところだったぜ!」

「文句を言うな、南の優男! 減らず口を叩く体力があるなら、さっさと右の死角を塞げ!」

 ベアトリスは振り返りもせず、返り血を浴びた横顔のまま鋭く怒鳴りつける。

 南の次期当主の軽口を「優男」と一蹴し、即座に戦力として陣形に組み込むその実戦主義。

 

「……ふっ、厳しい上官だ」

 リュートもまた、疲労の極致にありながら短く笑い、重くなった剣を握り直した。

 カイルが前衛の要となり、ベアトリスが中央で軍を指揮し魔物を屠る。そしてその両脇の死角を、泥だらけの新兵(リュートとライオネル)が完全に塞ぐ。

 王都の安全な教室で語られる理屈や魔法の知識など、ここには一切存在しない。

 

 乱戦の只中、己の身分を捨てて最前線の泥を被った少年たちと、領民の命を背負って血に塗れる若き女将軍は、互いの背中を預け合い、ただ生存と防衛のためだけにその命を燃やし続けるのであった。

 

 

 

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