リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
7 背負う重みと、南の獅子の密かな予感
血肉が飛び散り、魔物の咆哮が耳をつんざく乱戦の只中。
ライオネルは、己のすぐ横で陣頭指揮を執り、大剣を振るうベアトリスの姿に息を呑んでいた。
彼女の戦い方には、一切の「後退」が存在しなかった。
自身の防御を捨ててでも、敵の懐へ踏み込み、必ずその場に踏みとどまる。一歩でも後ろへ下がれば、そこから防衛線が崩れ、背後にいる数万の領民たちが魔物の胃袋に収まることを、彼女の身体が、魂が、本能レベルで理解しているのだ。
『……信じられねえ。一歩でも退けば終わるという絶対の死線で、これほどの絶望を背負って立ち続けているというのか』
ライオネルの琥珀色の瞳が、彼女の小さな背中に縫い付けられる。
南の豊穣な大地で、領民の笑顔と豊かな麦畑を背負う覚悟を決めた己の責任感など、彼女のそれに比べればどれほど温く、平和なものであったか。
ベアトリスの背中には、最前線の泥に塗れて次々と死んでいったアイギス家の者たちの怨念と、今この瞬間も命の危機に晒されている数万の北の民の命が、物理的な重力となってのしかかっている。
彼女が背負う命の重さは、あまりにも死に近く、そして重く、濃い。
『……とんでもねえ奴だ。こんな血生臭くて、絶望的な重りを背負いながら……』
直後、ベアトリスが強烈な踏み込みと共に大剣を振り抜き、巨大な魔物の首を宙に飛ばした。
ドサリと雪原に沈む巨体。降り注ぐ返り血を顔に浴びたまま、彼女は荒い息を吐き、こちらを振り返った。
「よく持ち堪えたな、新兵! その泥臭い槍捌き、悪くないぞ!」
地獄の底のような戦場で、死臭と血の臭いにまみれながら、彼女は不敵に、そして獰猛なまでに美しく笑って見せた。
その瞬間、ライオネルの胸の奥で、激しい鐘が鳴った。
それは、決して甘い恋心などではない。自身も南の民を愛し、すべてを背負って泥を被る覚悟を決めていたからこそ生じる、強烈な同族嫌悪に似た『親近感』。そして、己以上に過酷な運命を背負いながらも決して折れない為政者への、深い『畏怖』と『魂の共鳴』であった。
『……ああ、そうか。俺が本当に横に並び立ちたいと思うのは、綺麗に着飾って安全な王都で微笑むような奴じゃない』
王家が敷いた分断統治。北は血を流し、南は搾取される。
その理不尽な世界をひっくり返すために、共に泥に塗れ、共に血を吐いて戦える本物の「半身」。
ライオネルは、顔にこびりついた魔物の血を手の甲で無造作に拭い去ると、ベアトリスの横顔を見つめながら、己の内に確かな予感(誓い)を打ち立てた。
『……こいつとなら、どんな地獄でも並んで歩けそうだ』
だが、その底知れぬ重力を持った感情を、彼は軽々しく口にすることはなかった。
ライオネルはただ、獰猛な南の獅子の笑みを浮かべ、彼女の隣で愛槍を肩に担ぎ直す。
「へっ……南の優男の手柄を、全部持っていかないでくれよ、将軍殿!」
甘弱な言葉の入る余地などない。互いに背負う領民の命の重さを知る、若き為政者同士の決定的な魂の交錯が、極寒の死線において確かに刻み込まれたのであった。
◇
凄惨な激戦が終わった夜。
死臭と血のにおいが立ち込める砦の片隅で、リュートは泥だらけの外套を羽織り、パチパチとはぜる焚き火の炎をじっと見つめていた。
その向かい側には、同じく魔物の返り血で赤黒く染まった重甲冑を脱ぎ捨て、簡素な防寒着姿になった女将軍・ベアトリスが腰を下ろしている。
凍てつく風が二人の間を吹き抜ける中、リュートは炎から目を離さないまま、初めて己の奥底にある「本音(罪悪感)」を静かに口にした。
「……王都の執務室にいた頃、私は戦死者の報告をただの『数字』として処理していた。今年のアイギス領の死亡率は三パーセント。防衛線を維持するための『必要経費』だと。紙の上で冷徹に計算し、すべてを理解した気になっていた」
「執務室? 死亡率の計算だと……?」
ただの志願兵だと思っていた少年の口から出た「国政を動かす側」の言葉に、ベアトリスが鋭く眉をひそめる。
「……お前は、何者だ?」
「偽名を使ってすまなかった。私は……第二王子、リュート・セシル・ローゼンタリアだ。そして私の右で死角を塞いでいた槍使いは、南のヴィレノール公爵家次期当主ライオネル。後方で土魔法を練ろうとしていたのは、東のオルディナ公爵家次期当主テオドールだ」
その告白に、戦場で一切の動揺を見せなかったベアトリスが、絶句して目を見開いた。
「第二王子だと……!? 『影』と揶揄され、王都の奥深くにいるはずの王族や、次代の公爵たちが……なぜこんな最前線で、一兵卒として泥に塗れている!」
「虎穴に入らずんば、虎子を得ずだ。……安全な王都の机上で命の対価を計算する己の傲慢さを、アイギス公爵に完膚なきまでに叩き潰されたからな」
リュートの深紅の瞳に、揺れる炎が反射する。その声は酷く嗄れ、血を吐くような後悔が滲んでいた。
「……あの三パーセントの数字の中には、昨日私に温かいスープを分けてくれた、名もなき兵士がいた。故郷に娘がいると笑っていた男だった。……私は、なんて恐ろしい見下し方をしていたのだろうな」
その凄絶な懺悔を聞き、ベアトリスはゆっくりと息を吐き出した。
王族という絶対的な特権階級にありながら、自ら死地に飛び込み、底辺の兵士一人を想って血の涙を流す特異な王子。その異常なまでの「為政者としての責任感」を前に、彼女の警戒は静かな敬意へと変わっていった。
ベアトリスは足元にあった枯れ枝を拾い上げ、炎の中へと放り込む。
「……大局的な視点で見れば、お前のその計算は間違っていない」
将軍としての重みと静けさを持った声が、夜の闇に響いた。
「上に立つ者は、全員を救うことなどできない。多数を生かすためには、時に少数を切り捨てざるを得ないこともある。それが、背後の数万の民の命を預かる者の『義務』だ」
彼女は、綺麗事など一切口にしなかった。最前線で常に「誰を生かして誰を死なせるか」という究極の選択を下し続けているからこそ、冷酷な合理性を肯定した。
しかし、ベアトリスは顔を上げ、リュートの瞳を真っ直ぐに見据えて、こう続けた。
「だがな、リュート殿下。……いつか貴方が王族として、あるいは宮廷の重職に就いて国の権力を行使し、多数のために少数を切り捨てる決断を下す時。その『切り捨てられる少数』の顔を、今日泥に塗れて死んでいった彼らの顔を、どうか思い出してやってほしい」
それは、法治国家の構想など知る由もない彼女が、純粋に「国を動かす権力者」となるであろう少年に向けた、途方もなく重い要求だった。
「その命の重みから決して目を逸らさず、血を吐くような痛みを背負いながら、それでもなお『国のために切り捨てる』と貴方が決断するのなら……私は、北の将軍として貴方のその選択を非難しない」
それは将来、自らの理想のために政敵や敗者を切り捨てるであろうリュートにとって、最大の「呪い」であり、同時に王の器を成すための「救い」となる言葉だった。
リュートは、痛いほどに強く唇を嚙み締めた。口の中に血の味が広がる。
だが、その眼差しからはすでに迷いが消え、すべてを背負い込む為政者としての強烈な覚悟が宿っていた。
「……ああ。約束しよう、ベアトリス。私は二度と、彼らの顔から目を逸らさない」
燃え盛る炎を挟み、王都の闇を統べる少年と、北の死線を統べる少女の間に、決して交わすことのできないほどの重い誓いが立てられた。この夜の記憶は、リュートの生涯において、決して消えることのない原点となるのであった。