リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『北の武神8』

8 北の血の対価と、無条件の援助

 

 魔物の大群との激戦から数日後。

 アイギス領最前線砦の奥、冷え切った司令室にて。リュート、ライオネル、テオドールの三人は、北の武神たるアイギス老公爵と再び対峙していた。

 

 半年以上前、王都の優雅な服を着て「合理的な取引」を持ちかけた少年たちの面影は、もはやどこにもない。彼らの顔には洗っても落ちない泥と血が染み付き、その眼光は死線を潜り抜けた者特有の、重く鋭い光を宿していた。

 分厚い執務机越しに彼らを見据え、老公爵は深く、腹の底に響く声で問うた。

 

「……身分を隠し、自ら北の泥を啜り、我が兵と共に血を流したそうだな。第二王子リュートよ。北の最前線で何を感じ、何を思った? その上でなお、貴様らは己の金と糧食を盾に、この北との『和解』を求めるか?」

 それは、為政者としての本質を問う、刃のような問いだった。

 

 だが、リュートの深紅の瞳に一切の揺らぎはない。王都に残るアイリスという絶対の共犯者への信頼を胸に、彼は東の資本の全権を背負う者として、静かに、しかし断固たる声で答えた。

 

「いいえ。和解の要求は、すべて撤回します。……私はこの数ヶ月で、己の提示した条件がいかに傲慢で、北の流す血を侮辱するものであったかを思い知りました」

 老公爵の片眉が微かに動く。リュートは言葉を続けた。

 

「我々王都の人間も、南の民も、東の商人も……すでに貴方たちから、十分すぎるほどの『見返り』を先払いして受け取っていた。極寒の地で魔物を喰い止め、この国に安寧をもたらしている北の血こそが、我々の豊かさの絶対的な担保だった。……その命の対価に対し、わずかな資本や食糧の援助をもって『和解』や『同盟』の対等な条件にしようなど、到底釣り合うはずがありません」

 リュートの言葉を受け、隣に立つ南の次期当主ライオネルと、東の次期当主テオドールも深く頷く。

 

「ゆえに、我々は北へ対価を求めません」

 リュートは、王族としての虚飾を完全に捨て去り、一人の為政者として老公爵を真っ直ぐに見据えた。

 

「和解関係の有無にかかわらず、東のアイリス・ルーナ・オルディナが全権を握る海運組合を通じた物資の支援と、南からの食糧援助を無条件で北へ回します。これは取引ではなく、貴方たちの流す血に守られて生きる我々が果たすべき、最低限の『義務』です。どうか、北の民の命を繫ぐために使っていただきたい」

 静まり返る司令室。

 

 自分たちの流す血の価値を正しく理解し、見返りを求めず実利(援助)のみを差し出すという若き為政者たちの決断に、老公爵はゆっくりと目を伏せた。

 

「……王宮の権力闘争において、我がアイギス家は決して特定の陣営には与せん。貴様らがどれほど物資を送ろうと、北が第二王子の派閥として頭を下げることはないし、政治的な譲歩も一切行わん。それが、この死地に民を縛り付けている当主としての責任だ」

 公爵の言葉は、北の独立と政治的非介入という絶対の線を守る冷徹なものだった。

 だが、その直後。白髪の猛禽は、机から立ち上がり、泥に塗れた少年たちへ向かって深く、静かに頭を下げた。

 

「……だが。我が兵の盾となり、共に血を流してくれたこと。そして何より、見返りを求めず、北の民が明日を生きるための糧を差し出してくれたこと。……アイギス公爵個人として、心からの感謝を。お前たちのその決断に、北の民は救われる」

 それは、王家を介さない、人と人、領土と領土の間に結ばれた本物の信頼の証。

 安易な同盟関係(ご都合主義)を拒絶しながらも、北の武神から「真の感謝と敬意」を引き出した瞬間であった。

 

   ◇

 

 王立学園の入学式が目前に迫り、王都への帰還の時が訪れた。

 アイギス領の最前線砦から少し離れた雪原には、東の海運組合が極秘裏に手配した中型の魔導船が、低く重低音を響かせながら待機している。

 

 だが、タラップの前で出立の準備を整えたリュートとライオネルに対し、東の次期当主であるテオドールは、泥と血に塗れた防寒着のまま、静かに、しかし岩のように動かない足取りで立っていた。

 

「……テオ。学園の入学年齢に達していないお前は、表向きは『東の領地で療養中』ということになっている。姉のアイリス殿も王都でお前の帰りを待っているはずだが」

「はい。ですが……僕はまだ、帰れません」

 リュートの問いかけに、テオドールは精悍さを増した顔を上げ、はっきりと残留を宣言した。

 

「この数ヶ月で、北の血の匂いを知ることはできました。ですが、東の当主として、彼らが流す血の『真の重さ』を完全に体に刻み込むには、まだ時間が足りません。……経済という名の『泥に塗れた盾』を東が担うのなら、僕はここで、彼らの盾の重さを骨の髄まで理解しなければならない。だから、残ります」

 かつて、カイルの殺気にあてられて泣き崩れていた温室育ちの少年の面影は、もうどこにもない。そこにあるのは、血と泥の現実を前にしても決して折れない、次代の公爵としての確かな矜持と覚悟であった。

 その瞳の強さを見届け、リュートは静かに頷いた。

 

「分かった。お前の覚悟を尊重しよう。……カイル、お前はここに残れ。テオの護衛を任せる」

「えっ……!? な、何を言っているのですか、殿下!」

 リュートの突然の指示に、テオドールが血相を変えて一歩前に出た。

 

「カイル殿は、殿下の『盾』です! これから王家が若者たちの思想を縛り付ける統制の要、王立学園へと乗り込むのに、最大の戦力である彼を手放すなど……僕の我儘のために、殿下を危険に晒すわけにはいきません!」

 必死に固辞しようとするテオドールの肩を、リュートは両手で力強く摑んだ。

 

「王都の離宮には、ルリカがいる。カイルが抜けた分、彼女が死に物狂いでリーゼと我々の盤面を物理的に死守する手はずになっている。それに……今の私とライなら、学園に潜む温い暗殺者程度に後れは取らないさ」

 リュートは、王都で見せていたような冷徹な計算づくの微笑みではなく、ただの一人の少年としての、少し不器用で温かい笑みを浮かべた。

 これまで孤立無援の影として生きてきたリュートが、初めて他者に対して見せた、身内への情愛。

 

「……兄に、弟の心配くらいさせろ、テオ」

「っ……殿下……」

 王族としての打算など一切ない、純粋な『兄』としての言葉。

 テオドールの瞳が熱く揺れ、泥だらけの拳が強く握りしめられる。

 リュートはテオドールの肩から手を離し、傍らに立つカイルに向かって深く頭を下げた。王族が、一介の護衛に対して頭を下げるというあり得ない光景。

 

「我が弟を頼む、カイル。……必ず生かして、王都へ連れ帰ってくれ」

「……へっ。王族に頭を下げられちゃ、断るわけにはいきませんね」

 歴戦の騎士は、首の骨を鳴らしながら獰猛に笑い、自らの左胸——心臓の位置を強く叩いた。

 

「この首と命に代えましても。必ず、東の坊っちゃんを立派な化け物に育て上げてお返ししますよ」

 それは、裏社会を生き抜いてきた男の、絶対の誓いであった。

 出立の汽笛が雪原に鳴り響く。

 

 リュートとライオネルは踵を返し、魔導船のタラップを登っていく。甲板から見下ろすと、雪風の中に立つテオドール、カイル、そして女将軍ベアトリスの姿が、少しずつ小さくなっていくのが見えた。

 

「……行くぜ、リュート。俺たちの戦場(王都)へ」

「ああ。安全な学び舎から、この国の根幹をひっくり返そう」

 魔導機関が唸りを上げ、船体が一気に上空へと飛翔する。

 遠ざかる北の地獄を見つめるリュートとライオネルの眼差しは、もはや理想を語るだけの中途半端な少年のものではなかった。

 王都の盤面(理屈)と、北の最前線(現場の血)。

 

 その両方の圧倒的な重さを知った彼らは、もはや誰にも止めることのできない、新しい国を創るための『本物の怪物』へと完全に仕上がっていた。

 彼らを乗せた魔導船は、次なる戦いの舞台である王立学園――王家が幼少期から「絶対忠誠」を叩き込み、次代の才能を飼い殺す巨大な思想統制のシステムそのものを内側から破壊するため、朝焼けの空を一直線に切り裂いていった。

 

 

(第5章 完)

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