リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 神輿のトラウマ
翌日。第一王子グラクトに与えられた豪奢な私室に、重苦しい沈黙が降りていた。
側近エドワルドから、昨夜のリュートとの極秘会談の内容――『四公爵家を取り込んだ生徒会の設立』と『品位を逆手にとった学則の導入』――の全貌を聞かされたグラクトは、称賛するどころか、血の気を失い、紙のように蒼白な顔で立ち尽くしていた。
「……正気か、エドワルド! あいつを私に近づけるな!」
グラクトはバンッと激しく机を叩き、震える声で吐き捨てた。
「あの完璧なまでの大義名分。逃げ道のない論理。あいつが私を助けるためにこんな真似をするはずがない! 忘れたとは言わせないぞ。私は……ルナリア妃の死の片棒を担いでいるんだ!」
グラクトは頭を抱え、荒い息を吐いた。
狂犬セオリスの処刑によって蓋をされたとはいえ、あの凶行が実母ヒルデガードの謀略であったことは、グラクト自身も薄々感づいている。そして、それを最も深く理解しているはずのリュートが、一切の復讐心を見せず、ただ『兄上をお支えする忠弟』の仮面を被って自陣営の懐に入り込もうとしているのだ。
「どの面を下げて、母を殺された息子を味方に引き入れるというんだ。私を立てるふりをして、必ず私を破滅させる猛毒を仕込んでいるに決まっている! あいつのあの底知れない従順な目が……私には恐ろしいんだ!」
母の死の真相と、己の威信を保つためにその罪を握り潰したという罪悪感。そして、底知れぬ知数を持つ異母弟への本能的な恐怖。
それらに押し潰されそうになりながら取り乱す主君に対し、エドワルドは感情を一切交えない、氷のように冷徹な声で事実を突きつけた。
「……ええ。リュート殿下が猛毒を仕込んでいることは、私も重々承知しております。ですが、殿下」
エドワルドは深く頭を下げたまま、王宮の残酷な現実を言葉にする。
「今の殿下には、その毒を飲み干してでも『圧倒的な統治の実績』を稼ぐ以外の道は残されておりません。四公爵家を平伏させ、学園に法と秩序をもたらしたという実績がなければ、本宮の大人たちは殿下を真の王とは認めないでしょう。殿下はこの提案に乗らざるを得ないのです」
「……っ!」
「それに、罪悪感があるのならば、なおのことです。……その罪悪感と泥をすべて飲み込み、それでもなお『光の象徴』として玉座に君臨し続けること。それこそが、理不尽な犠牲の上に立つ、次期『王』の義務にございます」
その冷酷すぎる正論に、グラクトは息を呑み、力なく椅子に崩れ落ちた。
『……そうだ。私は、まだただの神輿なのだ』
パレードで平民の少女を救い、王としての矜持に目覚めかけたとはいえ、己の足で立ち、己の手で法を編むだけの実力はまだ備わっていない。血統という呪縛によって祭り上げられ、実務はエドワルドのような優秀な官僚に依存し、自分は絶対の権威として微笑むことしか許されない。
グラクトの中で、恐怖と王としての自負が激しく渦巻く。だが、絶望の底で、彼は血が滲むほど強く拳を握り締めた。
「……わかった。私が、やろう。生徒会長の座に就き、あいつが編み出す『学則』を私の名の下に布告する」
グラクトは震えを抑え込んだ声で決断を下した。だが、彼の中にはまだ一つの懸念が残っていた。
「しかし、エドワルド。その『学則』とやらで上位貴族の特権を縛れば、必ず反発が起きる。明確な『罰』の規定がなければ、彼らは大人しく従いはしないのではないか?」
それは、為政者として極めて真っ当な懸念であった。
だが、ここでエドワルドという『伝統的な貴族政治の枠組み』の中で極まりすぎた知将の、最大の盲点が露呈する。
「ご案じには及びません、殿下。彼ら貴族が、殿下の御名で出された規則を破り、大問題を起こすことなどあり得ないからです」
「……あり得ない、だと?」
「はい。我々貴族は、幼少期より『君臣の義』を徹底的に叩き込まれて育ちます。殿下が明確な意思を示され、さらに四公爵家がそれに賛同しているという絶対的な状況下で、それに逆らうような不忠者は存在しません」
エドワルドは、微塵の疑いもなく言い切った。
彼自身が王家に対して絶対の忠誠を誓い、秩序を重んじる有能な官僚であるがゆえに、「王家の権威を前にして、己の身分を優先して暴走する愚か者」の心理を、根本的に理解できなかったのだ。
彼にとって、貴族とは等しく君臣の義を弁えるべき存在であり、グラクトの『圧倒的な品位と権威』さえあれば、罰則など用意せずとも、学園は自然と平定されると本気で信じ切っていた。
「殿下はただ、光の象徴として堂々と振る舞っていただければよろしいのです。殿下の『品位』こそが、すべての貴族を抑え込む最強の抑止力となります」
その言葉に、グラクトもまた縋るように頷いた。
「……そうか。私の威光で、抑え込めるのだな」
自分は実務を回せずとも、彼らが作ってくれた『学則』を熟読し、理解し、その理念を体現する完璧な象徴として振る舞えばいい。そうすれば、貴族たちは忠誠を誓い、平民は規則に従い、秩序は保たれるのだと。
だが、彼らは致命的に見落としていた。
特権意識に凝り固まった貴族にとって、平民から「規則」を理由に注意されることが、いかに彼らの『品位』を傷つけ、君臣の義すら忘れさせるほどの激しい怒りを招くかということを。
そしてそれこそが、リュートが意図的に用意した「規則と品位の激突」という名の、学園崩壊の時限爆弾であった。
「……エドワルド。あいつらが作るという学則の草案、すべて私に回せ。一言一句違わず頭に叩き込む。それが、今の私にできる『王の仕事』だ」
恐怖と王の義務を抱きながら、光の神輿は自らの足で、リュートが用意した修羅の盤面へと足を踏み入れた。己の『品位』で世界を律せられるという、傲慢で純粋な錯覚を胸に抱いたまま。
◇
グラクトが生徒会長という神輿に乗る決断を下した翌日。
第一王子派が学園の上層部へ通達を出すその直前、リュートは学園の裏手に位置する人気の途絶えた修練場で、ただ一人、北の次期当主ベアトリスと対峙していた。
東のアイリス、南のライオネル、西のヴィオラはすでにリュートの意図を完全に理解し、盤面に組み込まれている。四公爵家の満場一致を演出するための最後のピース――北の覇者に対する、儀式的な「根回し」であった。
リュートは、グラクトをトップに据えた生徒会の発足と、特権階級の振る舞いを明文化された規則で縛り上げる『学則』の導入について、包み隠さずすべてを語った。
それは同時に、旧体制の恩恵に縋る上位貴族たちの既得権益を容赦なく「切り捨てる」という、血を伴う法治国家への宣戦布告に他ならない。
すべてを聞き終えたベアトリスは、手にした木剣の柄に寄りかかり、かつて北の死線で見せたような、静かで重い眼差しをリュートに向けた。
彼女の脳裏に、死臭と血の匂いが立ち込める砦の片隅で、共にパチパチとはぜる焚き火を見つめたあの夜の記憶が蘇る。
『いつか貴方が国を動かす権力者となり、多数のために少数を切り捨てる決断を下す時。……その切り捨てられる少数の顔を、今日泥に塗れて死んでいった彼らの顔を、どうか思い出してやってほしい』
あの時、彼女が突きつけた重い呪いと要求。
目の前に立つ少年は今、特権貴族という「少数」を切り捨て、国家という「多数」を生かすための修羅の道を、自らの足で歩き出そうとしているのだ。あの夜、血を吐くような痛みを背負いながら「二度と目を逸らさない」と誓った、強烈な覚悟を胸に抱いて。
ベアトリスは、リュートの深紅の瞳を真っ直ぐに射抜いた。そこに、命の重みから目を逸らすような傲慢な算盤弾きの色は、微塵もない。
「……必要なのだな」
ただ一言。それだけを問うた。
リュートは言葉を発さなかった。ただ深く、一度だけ無言で頷いた。
「……よかろう」
ベアトリスは短く応え、木剣を背に回した。
それは出来レースでありながら、二人の間にだけ通じる、決して言語化し得ない魂の底での絶対的な確認作業であった。
北の槍は、彼が痛みを背負って編み出す『法』を守るための、最強の盾となる。沈黙の誓約が、ここに完了した。