リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 噛み合わない兄弟
修練場の空気がようやく落ち着きを取り戻した頃、柱の陰から一人の少年が静かに歩み出た。リュートだった。
黒髪が陽光を吸い込むように深く、赤い瞳は修練場の熱気を冷たく見据えている。八歳の体はまだ幼いが、その歩き方は無駄がなく、まるで影そのものが形を成したようだった。
彼は無言でリーゼロッテの肩に手を置き、倒れそうになる体を支えた。煤で汚れた妹の頰に、ハンカチを優しく当てる。手つきは穏やかで、兄としての温もりが確かにあった。
しかし顔は鉄のように硬く、唇は一筋の線を描くだけ。感情を一切表に出さないその表情は、修練場全体を静かに凍りつかせた。
グラクトはリュートに気づくと、パッと顔を輝かせた。
先ほどの魔法暴発など、すでに頭の中から消え去ったかのように、爽やかな笑みを浮かべて駆け寄ってくる。金髪が陽光にきらめき、金色の瞳は無垢な期待で満ちていた。セオリスとの熱い主従関係に酔いしれた余韻が、まだ彼の頰を赤らめている。
グラクトはリュートにも同じ熱意を向けようとした。「頼れる兄」として振る舞うのが、今の彼にとっての自然な姿だった。
「やあ、リュート! 見ていたか? 今の僕の炎! まだ制御が必要だけど、威力は凄かっただろう?」
声は弾み、悪びれの欠片もない。リーゼロッテが転んだことなど、些細なハプニングとして処理済みだ。彼は屈託なく続けた。
「リュート、お前も書庫ばかりに籠もっていないで、一緒に訓練しないか? 僕がコツを教えてやるよ。兄弟で切磋琢磨しようじゃないか! なあ、セオリス?」
セオリスが即座に頷き、満足げに胸を張った。
「グラクト様のご慈悲ですぞ、第二王子殿下。体を鍛えれば、少しは陰気さも晴れるでしょう」
グラクトの提案は、純粋な善意から出たものなのだろう。少なくとも、彼の瞳には悪びれた様子など欠片もない。だが、その言葉は妹を焼き殺しかけた直後に発せられたものだ。
リュートはその神経に、胸の奥で強烈な吐き気を覚えた。妹のスカートが焦げ、転んだ瞬間の恐怖を思い出しただけで、喉が締めつけられる。なのに、グラクトは笑顔で「教えてやる」と言う。光の王子は、加害者の立場など想像すらしていないのだ。
リュートは一瞬、視線を落とした。感情が顔に出れば、すべてが崩れる。王族の品位を貶める行為は大罪だ。だが、妹を守るためには、この溝を明確にしなければならない。
彼はゆっくりと頭を上げ、深く一礼した。声は慇懃で、しかし氷のように冷たい。
「……第一王子殿下のお誘い、恐悦至極に存じます。しかし、私のような影の存在が、殿下の高貴な炎の輝きを曇らせるわけにはまいりません。私はこのまま、暗い書庫に籠もるのが分相応というものでしょう」
グラクトは一瞬、目を丸くした。だがすぐに笑顔に戻り、軽く肩を叩こうと手を伸ばす。
「そんなこと言うなよ。兄弟じゃないか。一緒に強くなろう」
リュートの瞳は動かない。グラクトの無神経さが、胸の奥で静かに燃えていた。光は眩しすぎて、影の痛みなど見えない。見ようともしない。
「……身の程をわきまえるのも、王族の品位でございます。リーゼロッテ王女も疲れているようですので、これにて失礼いたします」
リュートは静かに背を向けた。リーゼロッテの手を優しく引き、修練場から去っていく。足音は小さく、しかし決定的だった。
取り残されたグラクトは、しばらくポカンとした顔で立ち尽くした。やがて、少し傷ついた表情になる。
「……なんだよ、あいつ。せっかく誘ってやったのに。冷たいやつだな」
セオリスがすぐに寄り添い、慰めるように言った。
「グラクト様の光が眩しすぎるのですよ。あのようなひねくれ者は放っておきましょう」
グラクトは小さく頷いた。傷ついた顔が、すぐに決意の表情に変わる。
「そうだな……僕は王として、もっと輝かねば」
修練場の陽光は変わらず輝いていたが、二人の影は、すでに永遠に交差しないものとなっていた。