リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 神輿の自己嫌悪
一年目の修了式を翌日に控えた夜。
豪奢な第一王子の自室に一人残ったグラクトは、机の上に積み上げられた『学園裁判制度』の膨大な草案を前に、ギリッと血が滲むほど強く唇を嚙み締めていた。
それは、弟のリュートと側近のエドワルドが、文字通り血眼になって組み上げた「法理と論理の結晶」であった。第一王子たる己の威光を盤石にし、不敬な特権貴族を合法的に排除するための完璧なシステム。
『……あいつらは、これほどの労力をかけて私の足場を固めてくれているというのに。私は、何だ』
静寂に包まれた部屋で、グラクトは重苦しい自己嫌悪の底へと沈み込んでいく。
リュートは内務省での実務経験を活かして法理を構築し、エドワルドは隙のない盤面を整える。四大公爵家の次期当主たちもまた、己の実力と才覚で学園を動かしている。
『……ここに、本当に「私」は必要なのか?』
第一王子の血を引くという看板さえあれば、中身が誰であっても成立してしまうのではないか。自分はただ血統という神輿に乗せられているだけの器に過ぎない。
その事実が、グラクトの脳裏に、かつて離宮のサロンでルナリアから浴びせられた氷のような宣告をフラッシュバックさせる。
『生まれ持った血統でも、他者がひれ伏す権威でもない。力を持たず、ただ無様に泣き喚くことしかできない十三歳の子供。……それが、今の貴方の真実です』
そうだ。自分には「本物の品性」など何一つなかった。
あの日、ルナリアに己の虚栄を完膚なきまでに叩き壊された自分は、現実を受け止める強さを持てず、自分を全肯定してくれる甘い毒へと逃げ込んだ。そして、自分を否定したルナリアに対する憎悪を、セオリスという狂犬の暴力に丸投げし、『あいつが何をしようと僕の知ったことか』と、見て見ぬふりの免罪符を発行したのだ。
自分のその無責任な逃避と、実母ヒルデガードの謀略が交差した結果、ルナリアは凄惨な死を迎えた。
あの時、自分は「空っぽの子供」であったがゆえに、取り返しのつかない罪を犯した。
それなのに、今。
「……また、同じことを繰り返すのか、僕は」
グラクトは震える手で、分厚い草案の束を撫でた。
自分が下手に動いて学則整備に口を出せば、エドワルドたちの緻密な計算を崩すノイズにしかならない。王の役割は実務ではなく『決断』だ。それは分かっている。
だが、法理の何たるかも理解せず、中身も知らずにただ彼らが持ってきた完璧な盤面に「許可する」と頷くだけ。面倒な実務をすべて他人に丸投げし、自分は安全な場所で裁定者としてふんぞり返る。
それは『決断』ではない。あの日、セオリスに暴力を丸投げして逃げ出したのと同じ、完全なる『責任の放棄』だ。
『……中身を知らずに裁決を下すだけの無知な王を、リュートやエドワルドが敬服することなどあり得ない。これではまた、血筋という作られたメッキを纏っただけの、無価値な赤子に逆戻りだ』
「……学ぼう」
グラクトは静かな、しかし為政者としての強烈な執念を宿した瞳で、誰もいない部屋で一人呟いた。
「実務はできなくともいい。だが、この長期休暇中……彼らが私のために作ってくれたこの『学則』と裁判の理念を、一言一句違わず血肉に変える。そして学園裁判の折には必ず、誰の言葉でもない、私自身の明確な理解と意思で『王の裁定』を下してみせる」
己の空虚さから逃げ出し、罪を犯した過去への痛切な懺悔。
それは、ただの見栄を捨て、真に「責任と決断を背負う者」となるためにグラクトが踏み出した、血を吐くような第一歩であった。
◇
そして迎えた、一年目の修了式。
厳かな空気に包まれた大講堂の壇上に、生徒会長にして第一王子・グラクトが立っていた。
その背後には、副会長のリュートをはじめ、エドワルドや四公爵家の次期当主たちが控えている。全校生徒の熱を帯びた視線がただ一点、光の君主へと注がれる中、グラクトは静かに、しかし講堂の隅々まで響き渡る声で語り始めた。
「この一年、未熟ながらも学園生活において、皆で等しく切磋琢磨できる環境を整えることを第一として、我々生徒会は運営を行ってきた」
堂々たる王の風格。だが、次の瞬間、グラクトの金色の瞳に明確な『怒り』が宿った。
「……しかし、生徒会役員が皆のために作成した学則を軽視し、特権を笠に着て学園生活の秩序を乱している者がいるのも、また事実である」
講堂の空気が、ピンと張り詰める。
グラクトの胸の内に渦巻いていたのは、第一王子の威光を傷つけられたという単なるプライドではない。
己の無力さを痛感し、必死に中身を埋めようと足搔いている自分に対し、眼下の特権貴族たちはどうだ。彼らはかつての自分と同じように、己の実力も責任も持たず、ただ血筋という「設定」に胡坐をかき、他人が血を吐いて作った『学則』を泥で汚している。
かつての己の愚かさを見せつけられているかのようなその振る舞いに対する、強烈な同族嫌悪と義憤であった。
「私は生徒会長として、甚だ遺憾に思う。……我々が苦心して作り上げた制度をないがしろにすることなど、制度を作った責任者として、決して許したくはない」
その言葉には、一切の容赦がなかった。
学則違反は第一王子への不敬であるという事実が、グラクト自身の口から全校生徒へ向けて、決定的な宣告として突きつけられたのだ。
「皆にも、個々の思いや誇りがあるであろう。……それ故、考えて欲しいのだ。どうすれば皆が安心し、この学び舎で切磋琢磨できるかを」
生徒たちがその真摯で厳格な王の姿に息を呑んで聞き入る中。
グラクトは、壇上で密かに強く拳を握り締め、己の内に巣食う「一人では何も成し遂げられない空虚な神輿」としての絶望を嚙み殺すように、最後の言葉を紡いだ。
「私自身、今後の課題にしたいと思う。……知ってほしい。一人では、何もできないということを。………以上だ」
それは、あの日離宮で逃げ出した過去から、現在に至るまでの己の凡庸さに対する、悲壮なまでの『敗北宣言(本音)』であった。
だが、その痛切な本音は、特権貴族たちには全く別の意味として届いていた。
『あの大いなる光の君主が、我々に団結と協力を求めておられるのだ!』
一瞬の静寂の後、講堂は割れんばかりの熱狂的な拍手と歓声に包まれた。
「グラクト殿下万歳!」と、王への忠誠を叫ぶ生徒すらいる。彼らは、グラクトの言葉を「王の謙虚さと慈悲」だと完全に勘違いし、その威光にひれ伏していた。
熱狂の渦の中心で、グラクトはただ静かに目を伏せている。
その光景を背後から見下ろしながら、リュートだけは、深紅の瞳に極めて冷徹な光を宿していた。
感情に流されて拍手を送る生徒たちの中で、ただ一人、前世の法曹としての理知を持った彼だけが、グラクトの言葉の裏にある「無力な神輿としての絶望」を正確に読み取っていた。
『……見事な演説だったよ、兄上。君のその痛切な無力感への自覚こそが、君を玉座に縛り付ける最強の鎖となる』
リュートは、狂喜する生徒たちと、孤独な決意を背負った兄の背中を眺めながら、氷のように冷たく嗤った。
『さあ、布石はすべて打ち終わった。二年目……特権貴族の首を落とす「学園裁判」の開廷だ』
拍手喝采の中、学園を法治で支配するための最強の箱庭内閣は、いよいよその牙を剝く次年度へと向かって、静かに幕を下ろしたのである。