リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

257 / 316
第6話『外側:法なき夜の死神2』

2 ルリカの出陣

 

 王都の裏路地に位置する、東の海運組合の隠れ家。

 薄暗い執務室の扉が乱暴に叩かれ、息を切らせた組合の構成員が血相を変えて飛び込んできた。

 

「ル、ルリカ様! 緊急事態です! 組合が支援している孤児院に、バルガス男爵と名乗る悪徳貴族がゴロツキを連れて押し入り、偽の借用書を盾にして……ニーナという七歳の少女を強引に連れ去りました!」

 

「……バルガス、男爵」

 窓辺で夜の王都を見下ろしていたルリカは、振り返ることなくその名をごくりと反芻した。

 

 構成員が告げた「親の借金をでっち上げられ、暴力で連れ去られた七歳の孤児」という凄惨な響き。それは、ルリカの脳裏に、深く冷たい過去の記憶をフラッシュバックさせた。

 

 実力主義のファブリス帝国において、身寄りをなくした孤児の末路は悲惨の一言に尽きる。

 かつてのルリカもそうだった。誰にも見向きもされず、泥水の中で飢えと寒さに震え、ただ死を待つしかなかった幼き日の己の姿が、恐怖に泣き叫ぶニーナの姿と完全に重なり合う。

 

『……あの時。泥の中で死にかけていた私を拾い上げ、その温かい手で抱きしめてくださったのは、他でもないルナリア様だった』

 帝国公爵家の令嬢という雲の上のような存在であったルナリアは、薄汚れた孤児である自分に「私の娘」と微笑みかけ、生きる意味と、温かい『家族』を与えてくれた。

 

 そしてルナリアが亡き後も、彼女が遺した大切な弟妹たち――リュートとリーゼは、身分なき異邦の孤児であるルリカを法と論理で「誇り高き長女」として迎え入れ、この海運組合という確かな居場所を与えてくれたのだ。

 

 ルリカは静かに窓辺から離れ、壁に立てかけてあった己の愛剣を手に取った。

 カイルは北の最前線にいる。リュートは王立学園という閉鎖空間の中だ。指示を仰ぐ時間はない。いや、初めから指示など必要なかった。

 

『あの孤児院は、ルナリア様が愛し、遺された弟妹たちが未来の国のために創り上げた大切な場所。そしてあそこにいる子供たちは、かつての私自身だ』

 鯉口を僅かに切り、冷たい鋼の輝きをその暗い瞳に映す。

 

『……ならば私は、ルナリア様がかつて私を救ってくださったように。今度は私が、同じ境遇のあの子たちを、理不尽な暴力から絶対に救い出す』

 これまでは、主の命に絶対服従する「無感情な刃」として生きてきた。

 

 だが今のルリカは違う。彼女の胸に宿っているのは、命令されたから動くという従属の論理ではない。ルナリアの慈愛を物理的な力(守護)として継承し、自らの明確な意志で理不尽を叩き斬る、家族の『お姉ちゃん』としての確固たる覚悟であった。

 

「……男爵の馬車が向かった先は分かっていますね?」

「は、はい! 組合の密偵がすでに追跡し、裏社会の非合法オークションが行われる地下施設を特定しています。すぐに傭兵部隊を集め……」

 

「不要です」

 ルリカは一切の感情を排した、氷のように冷たく静かな声で構成員の言葉を遮った。

 

 彼女が纏う空気は、先ほどまでの静謐な侍女のそれではない。幾多の死線を潜り抜け、帝国の虎の傍らで研ぎ澄まされてきた『最強の死神』としての圧倒的な殺気が、室内の温度を急激に引き下げていく。

 

「多人数で動けば、王都の警備兵の目を引き、鼠どもに逃げる隙を与えます。……私が単独で潜入し、泥の中の掃除を終わらせてきます。貴方たちは、事後処理の馬車だけを用意しておきなさい」

 

「ルリカ、様……」

「家族の庭を荒らした薄汚い獣どもに、貴族の『特権』というものが死の淵でどれほど無力か、骨の髄まで教えてやります」

 一切の容赦も、慈悲もない。

 

 ルリカ・シルファは黒衣の裾を翻し、己の居場所と家族を守るため、そしてかつての自分自身を救い出すため、血の匂いが立ち込める夜の王都へと、単騎で音もなく姿を消した。

 

   ◇

 

 王都外縁、バルガス男爵の別邸。その地下に広がる石造りの保管庫は、今や非合法な人身売買のオークション会場と化していた。

 

 カビと脂、そして恐怖の汗が混じり合った異臭が立ち込める中、鉄格子の檻に入れられた子供たちが震えている。薄暗い松明の光に照らされたステージの上では、先ほど孤児院から略奪されたニーナが、猿ぐつわを嚙まされ、絶望に濡れた瞳でバルガス男爵を見上げていた。

 

「はっはっは! 見ろ、この怯えきった極上の瞳を! 海運組合の商人どもから巻き上げたこの『商品』が、いくらで売れるか楽しみだ!」

 バルガス男爵は、悪徳ブローカーや好事家の貴族たちを前に、勝利の美酒を煽っていた。

 

 会場の四方には、彼が雇った凄腕の傭兵やマフィアの暗殺者たちが十数人も睨みを利かせている。ゼノビア侯爵が失脚し、近衛騎士団が機能不全に陥っている今、この地下空間は、暴力と欲望だけが支配する完全なる『安全圏』のはずであった。

 だが、その安全圏は、一筋の冷たい風と共に音もなく崩壊を開始した。

 

「……ん? おい、扉の前の二人はどうした」

 傭兵の一人が、入り口の異変に気づいた。

 

 見張りに立っていたはずの二人の男が、いつの間にか糸の切れた人形のように床に崩れ落ちている。血溜まりは出来ていない。ただ、首の頸動脈だけが、極めて鋭利な刃物で『音もなく』切断されていた。

 

「な、何事だッ!」

 男爵の悲鳴を合図に、傭兵たちが一斉に獲物を抜く。

 薄暗い階段の影から、コツ、コツと足音を響かせて姿を現したのは、黒衣に身を包んだ少女――ルリカ・シルファであった。

 

「……家族の庭を荒らした鼠が、これほど群れているとは」

 ルリカの瞳は、無機質な殺意だけを宿していた。

 

 怒声と共に、三人の傭兵が殺到する。彼らは歴戦の荒くれ者であり、魔法使いが詠唱を始める前の「隙」を突く戦い方を熟知していた。

 しかし、ルリカの口から詠唱の呪文が紡がれることはなかった。

 

『――無詠唱による魔力起動。ならびに、風と光の属性複合』

 ルリカの身体が、陽炎のようにブレた。

 

 次の瞬間、彼女の姿は傭兵たちの視界から完全に消失し、三人の男たちの首が、まったく同時に、いとも容易く宙を舞っていた。

 

「な、あ……!?」

 残された者たちは、己の目が信じられなかった。

 魔法とは、過去の偉業をなぞる長大な詠唱を経て、初めて発動するものである。それが王国の常識であり、魔導を司るセラフィナ侯爵家の嫡男リーデルすらも「伝統を崩すなど言語道断」と絶対視していた過去の縛りであった。

 

 かつてリーゼロッテが語った「無詠唱」と「属性複合」による未来の魔導理論。

 それを、リーデルは「品位を欠く」と見下し、嘲笑った。

 

 だが、リーゼロッテは決して諦めなかった。権威に否定されても、彼女はリュートと共に離宮の奥深くで密かにその理論を研究し続け、実証の域にまで組み上げてみせたのだ。それは学問としての探求などではない。己の家族を理不尽から守るための、極めて実戦的で冷徹な『力』の探求であった。

 

『……見なさい、本宮の愚か者ども。貴方たちが嘲笑った妹の知性は、今ここで、いかなる伝統をも凌駕する絶対の刃となる』

 ルリカは、音を殺す「風」と、光を屈折させて残像を生む「光」の魔力を、詠唱を完全に省略して肉体に同時展開していた。

 

 帝国の実戦的な暗殺術と、妹リーゼロッテが血を吐くような努力で編み出した『未来の魔導理論』の完璧な融合。

 権威に守られただけの貴族には絶対に届かない、姉と妹の絆が産み出した、理不尽なまでの暴力の極致であった。

 

「ば、化け物めッ! 魔法使いなら、なぜ呪文を……あがッ!?」

「逃げろ! こいつ、ただの人間じゃな……ッ!」

 一切の無駄がない、殺戮の芸術。

 

 詠唱の隙を突こうとした傭兵も、物量で押し潰そうとしたマフィアも、ルリカの姿を正確に捉えることすらできないまま、次々とその命を刈り取られていく。

 

 妹の理論(知性)を己の肉体で証明するように、ルリカは冷徹な機械のごとく、ただ「標的を排除する」という目的だけを遂行していった。

 

 わずか数十秒。

 地下施設を警備していた十数人の傭兵と暗殺者は、まともな抵抗すら許されず、静かな死体となって冷たい石畳を血に染めていた。

 

「ひ、ひぃぃ……っ! あ、悪魔だ……! 来ないでくれ……っ!」

 ブローカーや好事家の貴族たちは、腰を抜かして四つん這いになり、泥水にまみれながら出口へと逃げ惑う。

 

 だが、彼らの前に立ち塞がったルリカは、ティナが事前に用意していた羊皮紙――バルガス男爵の横領、違法取引、そして人身売買の詳細な余罪記録――を、震える男爵の足元に無造作に投げ捨てた。

 

「これは……ッ!? な、なぜこれを貴様が……!」

「光が届かぬ泥の中は、私が掃除いたします。……二度と、我々の家族に触れるな」

 ルリカは冷酷に宣告し、一寸の躊躇もなく、男爵の心臓へと白刃を突き刺した。

 

 特権という見えない鎖に胡坐をかいていた悪徳貴族が、物理的な死の前にあっけなく崩れ落ちる。

 その血まみれの惨劇の中心で、ルリカは静かに剣の血振るいを行い、鞘に収めた。

 そして、檻の鍵を斬り裂き、中で恐怖にすくみ上がっているニーナへと、ゆっくりと歩み寄る。

 

「……もう大丈夫ですよ、ニーナ。お姉ちゃんが、来ましたから」

 しゃがみ込み、ニーナをそっと抱きしめるルリカの顔には、先ほどまでの冷徹な死神の面影は微塵もなかった。

 

 そこにあるのは、亡き母・ルナリアによく似た、不器用だが、たまらなく温かい慈愛の微笑みであった。

 妹の知性を牙とし、母の慈愛を胸に抱く。それこそが、ルリカ・シルファという一人の女性が手に入れた、真の強さであった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。