リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 帰る場所と、次なる盤面の設計
王都の裏通りにある孤児院。
無事に連れ帰られたニーナの姿を見るなり、院長と保母たちは泣き崩れ、子供たちは安堵の声を上げて小さな体を寄せ合った。
学園の外で、リュートの創る国を支える「最も強力で優しい影」が、その圧倒的な実力を証明した瞬間であった。
その数時間後。深夜の王立学園。
徹底した警備と魔導結界が敷かれているはずの男子寮、第二王子専用室。分厚い法案の草稿を書き進めていたリュートは、背後の空間がわずかに揺らいだ瞬間、ピタリと羽ペンを止めた。
「……ルリカか」
振り返ったリュートの深紅の瞳には、鋭い警戒の色が浮かんでいた。
どれほど彼女の隠蔽技術が完璧であろうと、ここは部外者立ち入り禁止の閉鎖空間である。本来、外部との連絡は暗号化した手紙や密偵を介して行うはずだ。
「厳重な結界と学園の規則を破ってまで、君が直接ここへ潜入してくるとは。……王都で、放置できない異常事態が起きたね?」
「はい。夜分に突然の無礼、平にご容赦を」
ルリカは闇の中から姿を現すと、深く片膝をつき、事の顛末を簡潔に、しかし一切の漏れなく報告した。
ゼノビア侯爵失脚による権力の空白。タガが外れた悪徳貴族による孤児院の襲撃。そして、己が独断で下した血の粛清と、見せしめのための事後処理の手配について。
「……なるほど。ゼノビア不在の余波が、そこまで王都の治安を悪化させていたか。カイルが北に残留し、王都の守りが手薄になっている隙を突かれた僕たちの失態でもある」
事態の全容を把握したリュートは、わずかに眉間を揉みほぐした後、静かにルリカを見下ろした。
「事後報告となり、誠に申し訳ありません。本来であればリュート様の指示を……」
「謝る必要はない。むしろ、よくやってくれた、ルリカ」
処罰を待つように頭を垂れるルリカに対し、リュートは極めて明確な肯定を与えた。
「僕たちが学園に隔離されている以上、緊急時に指示を待てば手遅れになる。家族の庭を守り、理不尽な無法者どもに躊躇なく鉄槌を下した君の判断と実行力は、非の打ち所がない。……それに、君が手配した『見せしめ』は、いずれ僕が王都へ持ち込む国家の構想において、貴族たちがすんなりと受け入れるための最高の布石にもなるはずだ」
単なる独断専行を咎めるのではなく、その結果生じた状況を『次なるシステムの材料』として即座に肯定・活用する。リュートのその冷徹かつ懐の深い為政者としての器に、ルリカは密かに安堵の息を吐いた。
リュートは机上の王都の地図へ視線を落とし、新たな指示を下す。
「だが、これで終わりではない。騎士団が治安維持機能を喪失している以上、王都の空白地帯はいずれまた別の悪党どもに狙われる。そこで、君が所有する海運組合の警備隊を再編し、明確な規則と階級を持った『自警団(私設警察)』として組織化したい」
「自警団、ですか」
「そうだ。法治国家には、法を物理的に執行し、泥の中から平民を守るための新たな暴力装置が不可欠だ。機能不全に陥った近衛に代わる、新国家の警察機構の雛形を、今のうちに君の手で王都の裏側に作っておいてほしい」
リュートはそこで言葉を区切り、真っ直ぐにルリカの暗い瞳を見据えた。
「――だが、その組織をどう動かし、どう王都の闇を管理するかは、すべて君に一任する。僕やリーゼは口を出さない。……君自身の裁量で、王都の泥を平定してくれ」
それは、単なる「命令」ではない。
一人の自立した当主であり、家族の長女である彼女への、全幅の信頼と権限の委譲であった。
ルリカは胸の奥で静かに燃え上がる誇りを感じながら、深々と、しかし今までで最も力強く、騎士の礼をとった。
「御意に。……法の光が届かぬ王都の泥は、我が自警団がすべて制圧し、お守りいたします」
箱庭の中で法を編む怪物たる弟と、箱庭の外で実力を行使する最強の姉。
王都を法治で支配するための両輪が、暗闇の中で静かに、そして確実に嚙み合った瞬間であった。
◇
翌朝。
薄暗い靄が立ち込める王都の中央広場は、早朝から尋常ではない数の群衆と、血相を変えて駆けつけた近衛騎士たちによる異様な喧騒に包まれていた。
広場の中央にそびえ立つ処刑台。
そこは奇しくも一年前、ゼノビア侯爵家の嫡男セオリスがルナリア暗殺の大罪を問い詰められ、絶望の中で首を刎ねられた『近衛の権威失墜の象徴』とも言える場所であった。
その処刑台に、今朝、三つの死体が首を吊られて風に揺れていた。
一人はバルガス男爵。あとの二人は、王都の裏社会を牛耳っていた人身売買ブローカーと、非合法賭場の元締めである。
彼らの足元には、長大な羊皮紙がこれ見よがしに打ち付けられていた。そこには彼らが行ってきた横領、違法な資金洗浄、そして孤児や平民を狙った人身売買の余罪のすべてが、日付や金額、裏帳簿の隠し場所に至るまで、極めて正確かつ詳細に(ティナの手によって)書き連ねられていたのである。
「……なんという事だ。騎士団が取り締まるべき裏の悪党どもが、こんな無惨な姿で……」
「しかも、場所がここ(セオリス処刑の地)だぞ。これは明らかに、我々近衛騎士団の『醜態』に対する、何者かからの痛烈な当てつけ(挑戦状)ではないか!」
現場を囲む騎士たちは、青ざめた顔で歯嚙みするしかなかった。
トップを失い、事勿れ主義に陥って治安維持の義務を放棄していた彼らの怠慢を、「お前たちが動かないのなら、こちらが泥の中を掃除してやった」とでも言わんばかりの、完全なる死の宣告。特権に胡坐をかき、自浄作用を失った王都の権力機構そのものに対する、あまりにも残酷で鮮やかな嘲笑であった。
そして、この吊るされた死体と完璧な罪状記録を見た王都の貴族たちは、騎士団以上の、底知れぬ恐怖のどん底に叩き落とされた。
『この男爵たちの悪行を、一体誰がこれほど詳細に調べ上げたというのだ……?』
『まさか、私の行っているあの裏取引も、すでに何者かに把握されているのではないか……!?』
貴族たちを震え上がらせたのは、単なる殺人鬼への恐怖ではない。
彼らが恐れたのは、自分たちが絶対の盾だと信じ込んでいる「貴族の特権」や「身分」を一切意に介さず、罪を完璧に暴き出し、弁明の余地も与えずに問答無用で命を刈り取っていく『姿なき死神』の存在そのものであった。
人治の国では、特権階級は本来裁かれない。
だが、その特権というルールすら無視して襲い来る「理不尽な暴力(暗殺)」を前にしては、彼らの地位など何の意味も持たなかった。いつ自分の寝首を搔かれるか分からない、特権が通じない恐怖。それは、かつて彼らが平民たちに強いてきた理不尽な恐怖の、完全なる意趣返しである。
「……裏で殺されるよりは、まだ『表の法』で裁かれる方がマシだ」
疑心暗鬼に陥った貴族たちの間で、やがてそんな悲痛な本音が囁かれるようになるのに、そう時間はかからなかった。
問答無用で暗殺されるくらいなら、まだルールが明確に定められており、弁明の機会が与えられ、命だけは取られない(かもしれない)『表の裁判』にすがりつきたい。
皮肉なことに、ルリカという『裏の死神』がもたらしたこの極限の恐怖こそが、将来リュートが学園から王都という広大な盤面へ「明確な成文法と裁判機構」を持ち込んだ際、特権貴族たちがすんなりと受け入れるための、最も強力で抗いがたい心理的下地となっていくのである。