リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 後宮の地盤沈下と、盤面の『詰み』
第一側妃ヒルデガードは、自室の鏡の前で己の顔に僅かに差した疲労の色を睨みつけていた。
この一年、彼女を取り巻く状況は音を立てて崩れ落ちようとしている。
実家であるゼノビア侯爵家が身内の不祥事で謹慎となり、彼女は最大の後ろ盾であった「近衛の武力」を喪失した。国王ゼノンは政務の重圧から逃げるように若き妾妃たちの部屋に入り浸り、後宮の秩序を保つべき王妃もまた、国王の業務の肩代わりで疲労困憊に陥っている。
だが、ヒルデガードにとって自身の権力低下などよりも遥かに恐ろしい「王国の危機」が、今まさに後宮で進行していた。
第三側妃ソフィアの台頭である。
『……あの卑しい狐女め。王家の品位も知らぬ魔導派の分際で、私のグラクトを骨抜きにするつもりか』
ルナリアの正論に自我を破壊されたグラクトを、ソフィアは「無条件の肯定」という甘い毒で絡め取り、完全に依存させてしまった。
ヒルデガードの目から見れば、それは『王国の崩壊』と同義であった。
王とは、時に血を流し、泥を被ってでも、気高く厳格に体制を牽引する強き存在でなければならない。それが武門ゼノビアの血を引く彼女の絶対の正義だ。
しかしソフィアは、グラクトから「困難に立ち向かう義務」を奪い、ただ甘やかして現実逃避させることで、彼を魔導派(セラフィナ侯爵家)の都合の良い傀儡へと作り変えようとしている。
『このままでは、王家の伝統と品位は失われ、国は口先だけの理屈をこね回す魔導派どもに乗っ取られる。グラクトの精神は完全に腐り落ち、ただ玉座で頷くだけの哀れな操り人形に成り下がってしまう……!』
ヒルデガードは、手の中の扇子をミシリと軋ませた。
ソフィアの猛毒からグラクトを奪還し、再び「気高く強い王」として育て直さなければならない。それは母としての情であると同時に、王国の伝統を守る第一側妃としての崇高な義務であった。
しかし、盤面は『詰み』に等しい。
ゼノビアの武力を失った今の彼女には、台頭する魔導派を力で叩き潰す手札がない。
彼女は、ゼノビア特有の力押しを嫌悪して鍛え上げた己の頭脳をフル回転させ、王宮の勢力図を冷徹に精査し始めた。魔導派に対抗しうる、王宮に家職をもつ「侯爵家」を引き入れるために。
だが、その分析結果は、彼女を深い絶望へと突き落とすものであった。
『軍部を束ねる元帥・アイゼンガルト侯爵は、国境警備で王都にいない。内務卿・メルカトーラ侯爵は計算高く、すでに有能な影である第二王子リュートの側を贔屓し始めている。貴族院議長・カルネリア侯爵は、息子エドワルドがすでにグラクトの側近として機能している以上、今さら父親を操っても魔導派への新たな牽制にはなり得ない。そして魔導卿・セラフィナ侯爵は、打倒すべき敵そのもの……』
残る侯爵家は二つ。
近衛を司るゼノビア侯爵家は、謹慎中で使い物にならない。
ならば、残された最後の、そして最強の一角は――。
『……国政のすべてを統べる頭脳、宰相・ヴァルメイユ侯爵家。彼らの首輪さえ握れれば、魔導派など容易く潰せる。……だが』
ヒルデガードは、ギリッと血が滲むほど唇を嚙み締めた。
『今の老宰相は、到底私の手に負える相手ではない』
長年国政を牛耳ってきたあの老獪な狸は、女の魅力や浅知恵など一切通用しない冷徹な現実主義者だ。不用意に近づけば、逆にこちらが利用され、切り捨てられるのは火を見るより明らかであった。
実家の脳筋を嫌悪し、理知的に盤面を分析したからこそ、彼女は客観的かつ残酷な結論に行き着いてしまう。
「……打つ手が、ない」
ヒルデガードは鏡の前で、力なく扇子を取り落とした。
どこをどう計算しても、現状の王宮の盤面には彼女が付け入る隙が存在しない。完全なる『詰み』であった。
愛する息子が腐っていくのを黙って見ているしかないのか。王国の伝統が、あの狐女に汚されるのを止められないのか。鍛え上げた知性ゆえに突きつけられた逃げ場のない無力感と絶望が、毒蜘蛛の精神を、暗く冷たい底へと沈めていくのだった。