リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 新宰相ヴァルメイユの就任と、標的の選定
季節は春。ローゼンタリア王国において、この季節の到来は単なる気候の変化以上の、極めて重要な政治的意味を持っていた。
王国では古くからの慣習法により、『春の日』を迎えると同時に全国民が一斉に年齢を一つ重ねる。それゆえ、急死などのイレギュラーがない限り、貴族の家督相続や大規模な役職の交代は、すべてこの『春の日』の節目に合わせて行われるのが通例であった。グラクトたちが王立学園に入学するのも、まさにこのタイミングである。
そして今年の春。王宮の勢力図を根底から揺るがす、一つの巨大な「代替わり」が正式に発表された。
代々宰相職を世襲する名門・ヴァルメイユ侯爵家。長年にわたり国政の裏表を冷徹に牛耳ってきたあの老獪な狸(前宰相)が、老齢を理由に突如として引退を表明し、実の息子である現ヴァルメイユ侯爵へと、その地位と権力のすべてを譲り渡したのである。
それは、完全なる手詰まりの絶望に沈んでいた第一側妃ヒルデガードにとって、思いがけず盤面に生じた『未知の変数』であった。
数日後、王宮の豪奢な回廊。
新体制の挨拶回りに訪れていた新宰相ヴァルメイユと、侍女を連れて通りかかったヒルデガードが、計算された「偶然」のすれ違いを果たした。
「――これは第一側妃殿下。ご機嫌麗しゅう存じます」
新宰相は、父親譲りの知的な顔立ちを緊張でわずかに強張らせながら、第一側妃に対して完璧な臣下の礼をとった。
ヒルデガードは足を止め、伏せられた彼のつむじから、仕立ての良い真新しい宰相の礼服までを、冷徹な観察眼で瞬時に値踏みする。
『……あの老獪な前宰相とは、まるで空気が違う。偉大すぎる父の威光を受け継ごうと必死に背伸びをし、その重圧に押し潰されそうになっている青臭い若者。……果たして、盤面を覆す私の「手駒」になり得る男かしら?』
絶望的な詰みの状況下において、ヒルデガードの精神は「この男が使えるか否か」を早急に見極めたいという焦燥に駆られていた。ダメなら即座に別の突破口を探さねばならない。
彼女は内心の急き立てられるような焦りを完璧な淑女の仮面の奥底へと封じ込め、王宮の頂点に咲く気高く慈悲深い白薔薇として、静かに探りを入れる。
「新体制への移行、心よりお慶び申し上げますわ、ヴァルメイユ侯爵閣下」
ヒルデガードは扇子を静かに閉じ、春の陽だまりのような、それでいて相手の緊張を解きほぐすような極上の微笑みを向けた。
「偉大な御父上の後を継がれる重責、いかばかりかとお察しいたします。陛下の御為、そしてこのローゼンタリアの未来のため、重圧に耐えようとする閣下のその真摯なお姿……大変頼もしく拝見しております」
「っ……もったいないお言葉です、側妃殿下。父の名に恥じぬよう、身を粉にして国政に尽くす所存です」
新宰相は、第一側妃からの温かく思いやりに満ちた労いの言葉に、わずかに頰を緩め、安堵の色をはっきりと顔に滲ませた。
周囲から「あの偉大な前宰相の息子」としてしか見られず、冷徹な評価の目に晒され続けていた彼にとって、自分個人の苦労や真摯さを真っ直ぐに認め、労わってくれる第一側妃の存在は、予想以上に深く胸に刺さったようだった。
『……驚くほど脆い。付け入る隙すら無かった父親とは大違いだわ』
ヒルデガードの脳内で、冷酷な算盤が弾かれる。
この男は、父親の幻影と国政の重圧という二重の鎖に縛られ、精神的に孤立している。「理解者」という名の甘い水を与え続ければ、必ずこちらに依存してくる。
手駒として、十分に『使える』。
「閣下は生真面目であらせられるから、どうか御無理だけはなさいませんように。……私でよろしければ、微力ながら、第一側妃としていつでもお力添えをお約束いたしますわ。何かお困りのことがあれば、遠慮なく私を頼ってくださいませね?」
優雅に微笑み、労りの言葉だけを残して、ヒルデガードは香水の残り香と共にその場を立ち去っていく。
すがりつくでもなく、要求するでもない。ただ「貴方の重圧を理解し、見守っている絶対的な味方」としての立ち位置を、完璧な品位をもって印象付けた。
見送る新宰相の目には、彼女が「国を憂う、慈悲深く気高い第一側妃」として完全に刻み込まれていた。
己の孤独を見透かされ、王宮で最も恐ろしい毒蜘蛛の巣へと「使える駒」として値踏みされたことなど、生真面目な若き宰相は知る由もなかったのである。
◇
名門ヴァルメイユの跡を継いだ新宰相の船出は、本人が覚悟していた以上の過酷なものであった。
偉大なる老宰相からの膨大な引き継ぎ業務だけでも殺人的であるのに加え、武官トップである近衛騎士団長の謹慎により、本来であれば軍部や近衛が処理するはずの治安維持に関する決裁までもが、すべて文官トップである彼の肩にのしかかっていた。さらに内務卿の管轄からは王都の治安悪化に伴うトラブルの報告が連日のように上がり続け、新宰相は就任早々、重圧と激務によって完全にパンク寸前の状態に陥っていた。
この状況を冷徹に観察していたヒルデガードは、ただちに国王ゼノンと王妃マルガレーテへの謁見を申し入れた。
王宮の執務室。
長椅子に深く腰掛ける国王ゼノンは、第一側妃ヒルデガードが優雅なカーテシーをとった瞬間、その顔に隠しようのない深い憎悪と嫌悪を浮かべた。
この一年、彼が彼女の寝所に一切寄り付いていないのは、決して臆病風に吹かれたからではない。消えることのない純粋な憎しみと、底知れぬ嫌悪感ゆえであった。
ゼノンの常識からすれば、あの時ルナリアはただ『情交奉仕者』の役目を辞退しただけである。たったそれだけのことで、凄惨な拷問死に至る暴挙を裏で糸引くなど、正気の沙汰ではない。ゼノンの目から見て、ヒルデガードの思考回路は完全に理解不能であり、同じ空間で呼吸をすることすらおぞましい存在でしかなかった。
「……ゼノビアの不始末による近衛の機能不全が、新宰相閣下に多大なるご負担をおかけしていると伺いました」
ヒルデガードは、国王の憎悪の視線など気にも留めない様子で、極めて殊勝な声を紡ぎ出した。
「ゼノビアの失態は、実家である私自身の恥でもあります。このままでは王国の政務が滞り、陛下や王妃様にもさらなるご心労をおかけしてしまう。……どうか汚名返上のため、新宰相の業務の一部を私が引き受け、彼を補佐させてはいただけないでしょうか」
実家の不始末を償うための、無償の献身。
誰も正面からは反論できない『大義名分』であった。
「……好きにしろ。余は、お前の顔など二度と見たくない。マルガレーテ、後は任せる」
ゼノンは吐き捨てるように言い残し、足早に執務室の奥へと消えていった。
後に残された王妃マルガレーテは、氷のように冷たい青い瞳で、伏し目がちなヒルデガードをじっと見据えた。
この毒蜘蛛が純粋な反省で動く女ではないことなど、とうの昔に見抜いている。必ず裏に、自己の権力拡大という打算がある。
だが、盤面の管理者たる王妃の思考は、感情論ではなく、極めて冷徹な『宮廷政治の勢力図』に向けられていた。
『……現在の後宮は、あまりにも均衡を欠いている』
第三側妃ソフィアを擁する魔導卿の勢力が、後宮での発言力を極端に強め、グラクトを完全に掌握しようとしている。さらに貴族院議長も、息子を通じてそちらへ傾きつつあった。
対する第二王子リュート派には内務卿がついているが、彼は後宮の権力闘争には一切興味を示さない。何より、あの知性の怪物たるリュートが、本気でグラクトを玉座へ押し上げる気があるのかどうか、王妃にはいまだに測りかねていた。
このまま魔導派が後宮と次期国王の精神を完全に独占する事態は、王国の安定において極めて危険である。三竦みとまではいかずとも、ソフィアの独走を牽制する『もう一つの手駒』が、どうしても必要だった。
『……この毒蜘蛛を盤面に残すのは危険だ。だが、リュートの動向が不透明で内務卿が後宮に介入しない以上、魔導派への牽制として使える駒は、もうこの女しか残っていない』
それは最適な選択などではない。後宮におけるソフィアの独走(猛毒)を防ぐために、あえて別の猛毒(ヒルデガード)を新宰相の執務室という盤面に解き放つという、為政者としての『やむを得ない苦肉の策』であった。
「……よろしいでしょう。新宰相の負担軽減は急務です。貴女が実務をこなし、滞りなく国政を回す手助けとなるのなら、王家としても助かります」
「寛大な御心に、深く感謝申し上げます。王妃様」
ヒルデガードは深く頭を下げ、その扇子の陰で、妖艶な笑みを深く刻み込んだ。
国王の嫌悪と、王妃の勢力均衡を狙ったギリギリの政治的妥協。その両方の隙間を縫うようにして、彼女はついに、国政の最高権力者たる新宰相と密室で過ごす権利を勝ち取ったのである。