リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 側妃の献身と、ソフィア懐妊の凶報
王宮の中枢に位置する、新宰相ヴァルメイユの執務室。
分厚い書類の山に埋もれそうになっていた新宰相の対面で、第一側妃ヒルデガードは、羽ペンを滑らせて極めて正確かつ迅速に政務の処理を行っていた。
「……閣下。近衛騎士団の予算編成と、王都の巡回警備の再配置に関する書類、こちらで不備がないか確認いたしました。決済のサインをお願いいたしますわ」
「おお……! 助かります、側妃殿下。まさか、これほど早く、しかも完璧に処理していただけるとは……」
新宰相は、信じられないものを見るような目で、綺麗に整理された書類の束を受け取った。
ヒルデガードは元々、知を鍛え上げた女である。ゼノビア特有の「力技」に偏る悪癖はあるものの、純粋な事務処理能力や王宮内の力学の把握においては、凡庸な文官を遥かに凌駕していた。
彼女は有能な補佐役として献身的に働きながらも、決して二人きりの密室にはしなかった。必ず実家のゼノビア侯爵家から連れてきた専属の侍女を部屋の隅に控えさせ、第一側妃としての「気品」と「適切な距離感」を完璧に保ち続けている。
王宮の侍女という生き物は口が軽く、醜聞に飢えている。ゆえに雇用時には魔法契約が必須だが、一般的な宮廷侍女の契約は「主から明確な箝口令を敷かれた事象についてのみ口外を禁じる」という緩いものであり、網の目を潜ることは容易い。
だが、ヒルデガードの背後に控える侍女は違った。彼女の魂には、極めて高価な専用の魔墨を用いた『第一側妃の不利益になる行為を一切禁ずる』という絶対の魔法契約が刻み込まれていた。
魔法契約は、署名者の心に恐怖や拒絶といった『魔力のノイズ』が少しでも混じれば、術式がショートして不発に終わる。無理やり脅迫して奴隷にすることは不可能なのだ。
だからこそ、ゼノビア侯爵家はこの侍女に対し、「一生遊んで暮らせる破格の対価」と「一族の生涯の生活保障」を提示した。侍女は自らの頭で計算し、その莫大な金のために『喜んで自分の口と自由を売る』という明確な欲望と覚悟をもって署名したのである。
意志と行動が完全に一致した純度の高い魔力で結ばれたこの共犯者(侍女)がいる限り、執務室での出来事が外部へ漏れることは絶対にない。
『……新宰相閣下にも、この魔法契約を使えれば手っ取り早いのですけれど』
ヒルデガードは、目の前で書類にサインする若き宰相を見つめながら、内心で冷たく嗤った。
誇り高き名門ヴァルメイユの当主である彼が、ゼノビアの金や権力程度の対価で自ら魂を売るはずがない。無理に署名させようとしても、彼の国を想う強い義務感や拒絶の意志が強烈なノイズとなり、契約書は燃え尽きてしまうだろう。
『契約魔法で縛れないのなら、絡め手を使うしかない。自らの意志で、私の足元に跪くように……』
書類を受け取る新宰相の指先が、ほんのわずかに自らの指に触れても、ヒルデガードは動じず、ただ静かに、慈愛に満ちた微笑みを返す。
決していやらしい隙は見せず、ただひたすらに「実家の不始末を償うため、孤立しながらも健気に国を支えようとする第一側妃」という高潔な虚像を演じ切る。
新宰相もまた、その虚像に完全に絡め取られていた。
就任早々、重圧に押し潰されそうになっていた自分を、見返りも求めずに完璧な実務能力で支えてくれる美しき女性。巷で囁かれる『毒蜘蛛』という悪評など、彼の中ではとうに消え失せていた。
代わりに芽生え始めていたのは、実家に振り回され、国王からも遠ざけられている彼女に対する「密かな同情」と、献身的な姿勢への「個人的な好意(憧れ)」であった。
ヒルデガードの放った見えない糸は、若き宰相の理性を、ゆっくりと、しかし確実に絡め取っていた。このまま時間をかけて精神的に依存させれば、彼は自ら喜んで彼女の手駒となるはずだった。
――だが、そんな矢先である。
後宮の勢力図を根底から塗り替える特大の激震が、ヒルデガードの耳に飛び込んできたのは。
『――第三側妃ソフィア様のご懐妊が、公式に発表されました!』
自室でその報告を受けたヒルデガードは、一瞬、ピタリと動きを止めた。
手にしていた高級な白磁のティーカップを、音を立てずにソーサーへと戻す。その所作は完璧な淑女のそれであったが、彼女の翠の瞳の奥では、凄まじい速度で冷酷な算盤が弾かれていた。
春を迎え、グラクトが十五歳となり王立学園へ入学したことで、第三側妃ソフィアは「第一王子の情交奉仕者」という役目を終えた。彼女が国王の閨に上がるのは当然の権利だ。
だが、まさかこれほど早く子を宿すとは。もし、ソフィアが産む子が『男子』だったらどうなるか。
現在、第一王子グラクトの王位継承権は、ルナリア暗殺事件の余波によって「白紙(保留)」状態となっている。そんな中で、強大な権力を持つ魔導卿の娘が男児を産めば、魔導派は間違いなく総力を挙げてその赤子を『次期国王』の座に推すだろう。
『……ええ。私の見立ては、完全に正しかった』
焦りよりも先に、ヒルデガードの口元に暗い歓喜の笑みが浮かんだ。
もしあの時、絶望して何の手も打たずにいれば、私とグラクトは完全に居場所を失い、すべてが魔導派に簒奪されて終わっていた。私が新宰相の執務室に入り込んだ判断こそが、王家を救う唯一の正解だったのだ。
自らの行いが「王国を救う正義」であると完全に裏付けられた瞬間だった。
だが、同時に絶対的な『時間制限』が設定されたことも事実であった。
『ソフィアが子を産み落とすまでの数ヶ月。……悠長に新宰相の心を溶かし、自然と私に依存してくるのを待っている時間はないわね』
ソフィアの出産と同時に魔導派が攻勢をかけてきた時、宰相が「完全にこちらの意のままに動く手駒」でなければ対抗しきれない。もはや、時間をかけた精神的な籠絡では間に合わないのだ。
『少々荒療治になるけれど……一瞬で彼を私の足元に繫ぎ止める、入念で決定的な罠を仕掛けるしかないわ』
それは焦燥による暴走などではない。自らの正当性を確信した毒蜘蛛が、時間をショートカットするために、若き宰相を逃げ場のない泥沼へと引きずり込むための極めて冷徹な決断であった。