リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 密室の慰労会
ソフィア懐妊の凶報を受け、計画の前倒しを決断したヒルデガードの行動は迅速かつ完璧だった。
数日後。近衛騎士団の再編と大規模な予算編成という、新宰相の肩に重くのしかかっていた巨大な業務がようやく一段落した夜のことである。
「閣下、本当にお疲れ様でした。……今夜はせめて、閣下の激務を労いたいのです。ささやかですが、祝杯を用意いたしましたわ」
執務室での作業を終えた後、ヒルデガードは労いの言葉とともに、王宮内にある客室での簡単な慰労会を提案した。
すっかり彼女を「無償で自分を支えてくれる慈悲深き第一側妃」と信頼しきっていた新宰相は、何の警戒も抱くことなく、その甘い誘いを受諾した。
案内された客室は、重厚なカーテンが引かれ、薄暗いランプの光だけが揺らめく静謐な空間だった。
部屋の隅には、あの『絶対の魔法契約』に縛られ、口を割ることも裏切ることも不可能な実家の侍女だけが影のように控えている。誰の目にも触れず、絶対に情報が漏れることのない、完璧な密室がそこに完成していた。
「さあ、閣下。今夜くらいは政務を忘れ、少しだけ肩の荷を下ろしてくださいませ」
ヒルデガードは優雅な所作で、美しいクリスタルグラスに赤ワインを注ぎ、新宰相へと手渡した。
そのグラスの中にはすでに、あらかじめ彼女が用意していた無色透明の『劇薬』が致死量ほど混入されている。それは毒ではない。極度の疲労状態にある者の脳に作用し、理性や警戒心をドロドロに溶かし尽くして、本能と情動をむき出しにさせる強烈な媚薬である。
何も知らぬ新宰相は「ありがとうございます」と微笑み、そのワインを喉の奥へと流し込んだ。
酒を交わし、ヒルデガードは新宰相の苦労話に優しく相槌を打つ。
薬効は、新宰相の極限の疲労感と混ざり合いながら、急速に彼の血肉へと回っていった。視界が微かに熱を帯び、思考の輪郭が曖昧になっていく。頭の芯が痺れるような感覚の中で、目の前に座る第一側妃の姿が、やけに艶かしく、そして甘く瞳に焼き付いて離れなくなる。
薬が十分に回ったことを冷徹に見極めると、ヒルデガードはふと目を伏せ、憂いを帯びた、ひどく儚げな瞳で彼を見つめた。
「……閣下は、名門ヴァルメイユ侯爵家を背負い、国のために身を粉にしておられるのに……邸に帰る時間もなく、さぞお寂しいでしょう」
それは、重圧に押し潰されそうになっていた彼の孤独を、的確に穿つ言葉だった。
新宰相が何かを言いかけるより早く、ヒルデガードはそっと身を乗り出し、テーブルの上に置かれた彼の大きな手の上に、自らの白く滑らかな手を重ねた。
ビクリと、新宰相の肩が震える。
むせ返るような白薔薇の香水が、彼の鼻腔を甘く麻痺させる。重なった肌から伝わる熱が、薬によって溶けかけた理性をさらに激しくかき乱していく。
「実は……私も、寂しいのです」
ヒルデガードは、潤んだ瞳で新宰相を真っ直ぐに見つめ上げた。
気高く、完璧な淑女であったはずの彼女が見せた、あまりにも無防備で生々しい「女」としての弱さ。
「この一年……陛下は私のもとへは、一度も渡ってきてはくださらない。冷たい夜を一人で過ごすたび、私は、女としてこのまま干からびてしまいそうで……」
ポツリとこぼれ落ちたその悲痛な告白は、新宰相の脳内で燻っていた理性の最後の一線を、完全に焼き切った。
自分を支えてくれたこの気高く美しい女性が、愛を飢えさせ、孤独に震えている。自分と同じように。
薬効によって正常な判断力を奪われた彼の脳内から、「名門ヴァルメイユ家当主としての責任」や、第一側妃に手を出せば一族もろとも破滅するという「大逆罪」の恐怖が、音を立てて崩れ落ち、跡形もなく溶け去っていく。
残ったのは、目の前の孤独な女を慰め、自らの孤独も埋めたいという、どうしようもない本能の渇きだけであった。
「ヒルデガード様……っ」
新宰相は獣のような荒い息を吐き、重なった彼女の手を乱暴に引き寄せた。
そのまま彼女の華奢な肩を抱きすくめ、抗いがたい熱に突き動かされるようにして、背後の重厚なソファへと彼女を押し倒す。
第一側妃殿下への不敬。取り返しのつかない大罪。
だが、ソファに組み敷かれたヒルデガードは、抵抗するどころか、その白く細い腕を新宰相の首へと回し、妖艶で残酷な毒蜘蛛の笑みを深く、深く浮かべて、その暴虐な腕を受け入れるのだった。
『――ええ。これで貴方は、完全に私のもの』
暗い密室の中、若き宰相の理性が完全に融解し、王国を揺るがす「大逆の首輪」がカチンと音を立てて嵌った瞬間であった。
◇
翌朝。
王宮の庭園から、朝を告げる小鳥のさわやかなさえずりが客室の窓越しに響いていた。
そののどかな音で意識を引き戻された新宰相ヴァルメイユは、酷く重い頭痛と、全身を覆う気怠さの中でゆっくりと目を開けた。
乱れたシーツ。室内に立ち込める、むせ返るような白薔薇の残り香と、生々しい情事の匂い。
そして、己の腕の中に残る、女性を強く抱きしめた熱の感触。
昨夜、自分が何をしたのか。
媚薬の効き目が完全に切れ、急速に覚醒していく脳内に、己が獣のように欲望を剝き出しにして『第一側妃』の身体を貪った記憶が、濁流となって押し寄せてきた。
一瞬にして、新宰相の顔からすべての血の気が引いた。
ガチガチと、奥歯が制御不能なほど激しく鳴り始める。シーツを摑む手は痙攣したように震え、全身から滝のような冷や汗が噴き出した。
「な、なんてことを……私は、第一側妃殿下と不義密通を……っ」
それは単なる過ちではない。王の所有物である側妃を犯すという、言い逃れの一切利かない『絶対的な大罪(国家反逆罪)』である。
「バレれば、代々宰相を務めたヴァルメイユ家が、私の一代で断頭台の露と消える……!」
偉大なる父から受け継いだ名門の歴史が、自らの愚かな情欲のせいで血に染まり、一族郎党ことごとく首を刎ねられる光景が脳裏にフラッシュバックする。
新宰相はシーツに包まったままベッドから転げ落ち、絶望で頭を抱えて床にうずくまった。呼吸の仕方を忘れたように喉がヒューヒューと鳴り、ただ極限の恐怖に震えることしかできない。
そんな彼の背後から、衣擦れの音が静かに近付いてきた。
「――おはようございます、宰相閣下」
頭上から降ってきたのは、昨夜の弱り切った女の甘い声ではない。
新宰相が恐る恐る振り返ると、そこには、すでに完璧に身支度を整え、一糸乱れぬ豪奢なドレス姿に戻った第一側妃ヒルデガードが、冷たい翠の瞳で彼を見下ろしていた。
昨夜の艶やかな気配など微塵もない。そこにあるのは、完全に罠に掛けた獲物を見下ろす、冷酷な捕食者の顔であった。
彼女は、床にうずくまりガタガタと震える新宰相の前に優雅にしゃがみ込むと、その青ざめた頰に、白く冷たい手をそっと添えた。
「……最高でしたわ、宰相閣下。貴方の熱、しっかりと受け止めました」
昨夜よりもさらに甘く、しかし、決定的な毒と支配欲を孕んだ声。
新宰相は、その言葉の裏にある『完全なる服従の要求』を悟り、ヒッと短い悲鳴を上げて息を呑んだ。
ヒルデガードは逃げ場のない新宰相の顔を引き寄せると、震えるその唇に、血が凍るような冷たいキスを一つ、落とした。
それは愛の証などではない。お前の命と一族の未来は、すべて私の手の中にあるという『絶対の刻印』であった。
「安心なさい」
ヒルデガードは顔を離し、優しく、しかし有無を言わせぬ絶対者の響きで囁いた。
「貴方が私とグラクトのために『良き働き』をしてくれる限り、この秘密は私が墓場まで持っていって差し上げますわ。……『これからも』、よろしくお願いいたしますね? 私の、可愛い共犯者様」
もはや、断る権利などどこにも存在しない。逆らえば、不義密通の事実を暴露され、ヴァルメイユ家は確実に滅亡する。
「あ……あ、あ……っ」
声にならない呻きを漏らす新宰相を残し、ヒルデガードは優雅に立ち上がった。
カツン、カツンと。冷たいヒールの音を客室に響かせながら、毒蜘蛛は美しく、そして完全に勝利した足取りで部屋を去っていく。
パタンと重厚な扉が閉まり、再び静寂が戻った密室。
残された新宰相は、自分がもはや国を導く気高き宰相などではなく、一族の命を人質に取られた『魔女の完全な奴隷』に成り下がった事実を、その魂の底から理解した。
「……ああ……あぁぁぁ……っ」
冷たい床に這いつくばったまま、若き宰相は己の愚かさと、逃れられない地獄への絶望に顔を歪め、シーツを固く握りしめて声なき涙を流し続けるのだった。