リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

265 / 315
第8話『外側:白き軍服の誓い3』

3 学園への誓い

 

 婚約が整った後も、二人の穏やかで優しい距離感は変わらなかった。

 いや、互いの想いが通じ合ったことで、その空気はより一層甘く、確かな信頼に満ちたものとなっていた。

 

 数日後の午後。

 いつもの庭園のベンチに、少しだけ肩が触れ合う距離で並んで座りながら、二人は同じ未来を見つめていた。セシリアの膝の上には、あの日贈られた深紅の薔薇を、彼女自身が丁寧に押し花にして作った手製の栞が挟まれた本が置かれている。

 

「来年の春には、私も十五歳だ。いよいよ『王立学園』への入学となる」

 レオンハルトは、眩しい未来を見据えるように、青く澄み渡った空を見上げて言った。

 

「軍部の跡取りとしての実践訓練だけでなく、貴族としての教養や、他派閥の者たちとの関わりも増える。……少し、お前と会える時間が減ってしまうかもしれない」

「寂しいですが……立派な元帥となるための、大切な学びの場ですもの。私はここで、ずっとお待ちしておりますわ」

 

「ああ。必ず、誰よりも優秀な成績を収めてみせるさ」

 セシリアの健気な言葉に、レオンハルトは優しく微笑み、そっと彼女の小さな手を握った。

 ビクリと肩を揺らしたセシリアだったが、逃げることなく、その温かく力強い手にそっと指を絡め返す。

 

「……私が学園で道を切り拓いておく。そして二年後、君が学園に入学してくる時には、私が先輩として……いや、君の『婚約者』として、学園の正門で一番に君を迎えに行くよ。誰にも、指一本触れさせない」

 

「ふふっ。レオン様ったら、気が早いですわ。でも……ええ。約束ですよ」

 陽だまりの中、二人は小指を絡め合い、屈託のない笑顔で未来を誓い合った。

 

 自分たちが将来、共に手を取り合い、それぞれの立場で国を支え、幸せな家庭を築いていくのだと。その輝かしい未来を、微塵も疑ってはいなかった。

 

 ――この美しく純粋な誓いが、大人たちのドロドロとした権力闘争と、ある一匹の毒蜘蛛が仕掛けた大逆の罠によって、無残に、そして永遠に引き裂かれてしまう運命にあることなど。

 光の中にいる彼らは、知る由もなかったのである。

 

   ◇

 

 光に満ちた庭園での美しい誓いから、数日後。

 王宮の中枢、新宰相の執務室は、分厚いカーテンが引かれ、日の差さない重苦しい空気に包まれていた。

 

 執務机に向かう新宰相の顔には、就任当初の生真面目な覇気は欠片も残っていない。あの大逆罪を犯した夜から、彼の精神は常に「一族の破滅」という見えない断頭台の刃を首筋に突きつけられている状態だった。

 そんな彼の背後から、音もなく忍び寄る影があった。

 

「お疲れのようですわね、宰相閣下」

 背後から首筋に白く滑らかな腕が回され、むせ返るような白薔薇の香水が執務室に充満する。ビクリと、新宰相の肩が跳ねた。第一側妃ヒルデガードである。

 

「ひ、ヒルデガード様……っ」

「ご心配なく。人払いは済ませてありますわ。……本日は閣下に、一つ『ご提案』があって参りましたの」

 すでに完全な支配を完了しているヒルデガードの声音には、圧倒的な勝者の余裕と、完璧に計算し尽くされた理知の響きがあった。

 

「貴方の愛娘、セシリア嬢のことです。……来年、婚約者であるアイゼンガルト家の嫡男が王立学園へ入学する間、彼女を私の宮へ『行儀見習い』として預からせていただけないかしら?」

「……え?」

 突然の申し出に、新宰相は呆然とした。

 

「アイゼンガルト家は武門の筆頭。有事や演習があれば国中を飛び回るのが常であり、学園に通う嫡男の不在時に、他家の令嬢を連れ回して十分な教養を身につけさせることなど不可能ですわ。……かといって、実家である貴方も、我がゼノビア侯爵家の不始末のせいで、娘の教育に割く時間などないほどの激務を抱えておられる」

 ヒルデガードは、怯える宰相の耳元に唇を寄せ、極めて優しく、理路整然と囁いた。

 

「ですから、私が貴方の負担を少しでも減らすために、セシリア嬢をお預かりして、王宮で最高峰の淑女教育を施して差し上げようというのです。アイゼンガルトの次期元帥の妻となるにふさわしい、完璧な花に育て上げますわ。……第一側妃である私からのこの厚意、まさか、お断りにはなりませんよね?」

 新宰相は、絶望に顔を歪め、ガタガタと震え出した。

 

 完璧だった。第一側妃が、多忙な宰相と元帥家に代わって令嬢の教育を引き受ける。貴族社会において、これほど名誉で、理にかなったありがたい提案はない。元帥家も世間も、疑うどころか諸手を挙げて賛同するだろう。

 

 だが、本心を知る新宰相だけは理解していた。

 これは「教育」などではない。国政のトップである自分の愛娘を合法的に手元へ置き、自分を意のままに操るための『完璧な人質』とする気なのだ。

 

 さらに、セシリアが次期元帥の婚約者であることを利用し、強大な軍部(アイゼンガルト家)に対しても強力な伝手と牽制の駒を握るという、恐るべき一石二鳥の罠。

 

 もしここで不自然に拒絶すれば、ヒルデガードはあの夜の不義密通を暴露し、一族を破滅させるだろう。

 利益と善意という極上の衣を被せられたこの要求に、彼が抗う術は一つも残されていなかった。

 

「……あ、ありがたき……幸せに、存じます……っ」

「ええ。賢明な父親の判断ですわ」

 血を吐くような宰相の承諾を聞き、ヒルデガードは満足げに微笑むと、悠然と立ち去っていくのだった。

 

 ◇

 

 その日の夜。

 ヴァルメイユ侯爵邸のセシリアの私室には、ほんのりとした灯りが灯り、温かな空気が満ちていた。

 セシリアは机に向かい、レオンハルトから贈られた深紅の薔薇を押し花にした手製の栞を、愛おしそうに指でなぞっていた。

 

 トントン、と。重いノックの音が響き、扉が開かれた。

 立っていたのは、父である新宰相だった。

「お父様? お帰りなさいませ」

 父親の、まるで十年も歳を取ってしまったかのような土気色の顔に、セシリアは心配そうに駆け寄った。だが、新宰相は娘の目を真っ直ぐに見ることができず、震える声で絞り出した。

 

「……セシリア。第一側妃殿下から、直々のお申し出があった。レオンハルト殿が学園へ通っている間、お前を王宮へ呼び、『行儀見習い』として教育を引き受けてくださると」

「第一側妃殿下からの、行儀見習い……?」

 セシリアの藤色の瞳が、驚きと、やがてパッと明るい光に包まれた。

 

「お父様、本当ですか!? 王宮の第一側妃殿下に直接作法を学べるだなんて、これ以上の名誉はありませんわ!」

「あ、ああ……そうだな……」

 

「私、最近ずっと考えていたのです。レオン様が立派な元帥になるために学園で厳しい訓練を積まれる間、私だけがこの安全な邸で、のんびり待っていて良いのだろうかと。……でも、アイゼンガルトの皆様は国境警備で常にお忙しいですし、お父様も最近、お一人でいくつものお仕事を抱えてお疲れのようでしたから……」

 セシリアは、机の上の深紅の薔薇の栞をそっと胸に抱きしめ、花が綻ぶような、愛らしい微笑みを浮かべた。

 

「だから、お父様のご負担も減らせて、私自身も成長できるなんて、本当に素晴らしいお話ですわ。……レオン様が学園で頑張っていらっしゃる間、私も王宮で一生懸命に作法を学びます。そして……誰の前に出ても恥ずかしくない、レオン様にふさわしい完璧な淑女になってみせます!」

 大好きな人の隣に立つために、自分も成長したい。父の助けにもなりたい。

 

 それは、恋を知った少女の、痛いほどに真っ直ぐで健気な決意だった。そこに一片の疑いも、悲壮感も存在しない。

 

「だからお父様、どうか安心してくださいませ。私、立派にお務めを果たしてまいります!」

 その純粋すぎる笑顔と真っ直ぐな言葉は、新宰相の心臓を無数の刃で切り刻むほどの罰であった。

 

 娘は何も知らず、この申し出を「自分とレオンハルトの未来のための素晴らしい機会」だと信じ切って喜んでいる。自分の浅はかな過ちのせいで、この光り輝くような娘を、決して生きては戻れぬかもしれない毒蜘蛛の巣へと人質として売り飛ばすのだというのに。

 

「ああ……すまない、セシリア……っ! 本当に、すまない……っ!」

 ついに耐えきれず、娘の足元に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくる父親。

 

 セシリアは「お父様ったら、大袈裟ですわ。すぐにお会いできますのに」と優しく微笑みながら父の背中を撫で、未来への希望に満ちた足取りで、自らあの恐ろしい後宮の暗闇へと足を踏み入れていく準備を始めるのだった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。