リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『外側:白金の防衛戦2』

2 すれ違う覚悟と、顔なき皇子の好奇心

 

 帝国使節団が、リーゼロッテの才覚に大満足の笑みを浮かべて応接室を後にした直後。

 

 重厚な扉が閉まり、自国の者だけになった空間で、リーゼロッテはすぐさまヒルデガードの御前へと進み出た。

 

 そして、一切の勝利の驕りも、帝国に認められたという自負も見せない、完璧に統制されたカーテシーで深く頭を下げる。

 

「第一側妃様。……本日は私に、このような身に余る機会を与えていただき、心より感謝いたしますわ。帝国の方々への応対、側妃様のご期待に沿えるものであったならば幸いです」

 彼女の口から紡がれたのは、「お母様」という血の繫がりを示す言葉ではなかった。

 

 リーゼロッテにとって、目の前に座るこの女は自分を産んだ親などではない。唯一の、本当の母であったルナリアを死に追いやった『仇』である。

 

 だからこそ、彼女はヒルデガードを母とは呼ばない。グラクトを兄とは絶対に呼ばない。それは、自らを虐げてきた血縁と完全に袂を分かち、愛する母の仇をいずれ必ず破滅させるという、彼女の魂に刻まれた誰にも侵させない絶対の『覚悟』であった。

 

 だが、自分が絶対的な支配者であると信じて疑わないヒルデガードは、リーゼロッテのその決死の覚悟を、自らに都合よく解釈した。

 

 特等席で見下ろす彼女の翠の瞳に、ギラリと強欲な光が宿る。

 

『……素晴らしいわ。国内の適当な貴族にあてがうには惜しすぎる。私が生んだこの小娘は、強国との外交において、計り知れない価値を生み出す「極上の外交兵器」だったのね』

 

 帝国の関心を引きつけ続けるこの娘を完全にコントロールできれば、帝国から莫大な譲歩を引き出すことができる。ヒルデガードの美しい口角が、ゆっくりと吊り上がった。

 

「ええ、よくやりましたね、リーゼロッテ。……貴女のその賢い頭、私とグラクトの未来のために、これからも存分に使いなさい」

「はい、第一側妃様。私の知性のすべては、貴女様のために」

 徹底して役職名で呼び、自らを卑下するようなリーゼロッテの態度を見て、ヒルデガードは極上の満足感とともに嗤った。

 

『賢明なことね。自分が私を「母」と呼ぶ権利すらない、ただの所有物だと完全に自覚している。……これだけ有能でありながら、私への恐怖と服従が骨の髄まで染み付いているのなら、これほど扱いやすい道具はないわ』

 憎悪による『決別』を、恐怖による『屈服』だと完全に勘違いした。

 

 この瞬間、ヒルデガードはリーゼロッテを自らの支配下にある都合の良い所有物だと完全に錯覚し、警戒を解いたのである。

 深く頭を下げるリーゼロッテの金色の瞳は、氷のように冷たく澄み切っていた。

 

『……ええ、それでいいわ。私が身の程を弁えた「忠実な道具」であると勝手に納得している限り、貴女は私をこの王宮で生かし、ある程度の自由を与え続けるしかない』

 己の覚悟を汚されることすらも利用し、相手の『有能な駒を手放したくない』という傲慢な強欲さを逆手にとって、自身の安全を確保する。

 

 リーゼロッテは、自らの知性で帝国という「最強の盾」を維持しつつ、絶対的強者であるヒルデガードの「致命的な勘違い(生存の保証)」をも同時に勝ち取ったのである。

 

 王宮の大人たちが束になっても敵わない、恐るべき十三歳の『離宮の女王』。彼女の完璧な偽装は、実の母の目すらも完全に欺き通したのだった。

 

 ◇

 

 場面は変わり、ローゼンタリアから遠く離れた地。

 強大な軍事力と徹底した実力主義を誇り、大陸の覇を唱える『ファブリス帝国』の豪奢な宮廷。

 

 磨き上げられた大理石の床に恭しく跪く使節団の代表を、玉座の傍らに立つ一人の少年が興味深げに見下ろしていた。

 

 帝国第二皇子、アレクシス・グラム・ファブリス。

 ローゼンタリアで孤軍奮闘するリーゼロッテと同じ、御年十三。しかし、その身に纏う覇気と知性は、すでに凡百の大人たちを遥かに凌駕する帝国の若き獅子であった。

 

「――して。我が『婚約者殿』は、どのような様子であった?」

 玉座の間に響く、十三歳とは思えぬ落ち着き払った声。

 

 使節団の代表を務めた初老の男は、未だにその胸に燻る感嘆の熱を隠そうともせず、深く頭を下げたまま報告の口を開いた。

 

「はっ。ローゼンタリアの第一王女は、もはや我々に教えを請うだけの、庇護されるべき子供ではありません。彼女はすでに自らの確固たる経済観と国家観を持ち合わせた……我ら帝国と『対等な交渉相手』にございます」

 使節団の口から語られた、リーゼロッテの「資本の流動性による国防」という高度な市場経済の持論。

 

 それを聞いたアレクシスの切れ長な瞳が、微かに、しかし確かな驚きに見開かれた。

 

「……ほう」

 アレクシスにとって、ローゼンタリアの第一王女など、幼い頃から聞かされていた『顔も見えぬ政略結婚の候補』でしかなかった。

 

 かつて帝国が生んだ傑物・ルナリアの血筋として、いずれ帝国がその強大な力で囲い込み、庇護してやるべき哀れな飾りの小鳥。それ以上の認識など持っていなかったのだ。

 

 だが、報告に上がる彼女の姿は全く違う。

 旧態依然とした腐敗極まる王宮という泥濘の中で、誰に縋ることもなく、たった一人で自らの牙と知性を研ぎ澄ませてきた、気高き白金の王女。

 

『私にすぐには靡かず、あえて待たせ、これほどの理論を語ってのけるか……』

 アレクシスの胸の奥で、静かな火が熾った。

 

 彼自身、帝国でも類を見ないほどの極めて優秀な頭脳の持ち主である。だからこそ、同年代で自分と対等に語り合える存在など、この帝国内にすらいなかったのだ。

 

「面白い。……ならば、彼女の底を試してみよう」

 アレクシスの端正な顔に、獰猛な好奇心と、知的なライバル心に満ちた不敵な笑みが浮かび上がる。

 

 彼はすぐさま自室へと戻ると、羽ペンを執り、上質な羊皮紙に向かってさらさらと文字をしたため始めた。

 

 そこに書かれているのは、甘い愛の言葉でも、身を案じる気遣いでもない。彼自身の持てる限りの知恵を込めた、極めて難解な『政治・経済の問い』であった。

 

「さあ、見せてみろ。君のその知性が、紛れもない本物であるという証明を」

 国境を越え、遠く離れたローゼンタリアの王宮。

 

 毒蜘蛛の巣の中で孤軍奮闘する美しき王女のもとへ向け、帝国から一通の手紙が送り出される。

 

 それは、実力主義の皇子から知の対等者へ向けられた『知恵比べの挑戦状』であり――同時に、互いの魂の形を確かめ合うための、極めて高度でロマンチックな『ラブレター』であった。

 

 

 

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