リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第10話『外側:法理の文通2』

2 失敗した進言と、王家の防波堤

 

 孤独な天才たちによる、客観的で精緻な「法学議論」が密かに交わされていた頃。

 王宮の政務室では、それとは完全に対極にある、この国の『人治の極致』とも言える光景が繰り広げられていた。

 

「――陛下。並びに王妃殿下。ゼノビア侯爵家の謹慎解除について、そろそろご決断をいただきたく存じます」

 

 国王夫妻の御前に進み出たのは、新宰相たるヴァルメイユ侯爵であった。

 彼はすでに第一側妃ヒルデガードの甘い毒と肉体に完全に籠絡されていたが、一国の実務を預かる最高責任者として、極めて精緻な正論をもって盤面を動かそうとしていた。

 

「現在、王都の治安悪化は看過できぬ事態となっております。これは予算や人員の問題ではございません。近衛騎士団長であるゼノビア侯爵が不在のため、近衛騎士団副団長と王都騎士団副団長を束ねる頂点が存在せず、相互の連携が全く取れていない……すなわち、王都の治安維持を担う指揮系統そのものが機能不全に陥っているのです。早急に彼らを復帰させねば、手遅れになりかねません」

 

 軍事と治安における致命的な急所を突く進言。だが、特等席からそれを見下ろす王妃マルガレーテの眼差しは、氷のように冷酷であった。

 

「……ルナリア妃の死と、実行犯たるセオリスの処刑からまだ一年。王族への暗殺という大罪を犯した一族を、実務上の都合で安易に復帰させれば、王室の血は安売りされ、我々の絶対的な品位は地に落ちます。却下です」

 

「ならばせめて!」

 新宰相は食い下がる。ここからが彼の真の狙いであった。

 

「謹慎がこれ以上長引くのであれば、当主が早世し子息が幼い場合などに適用される特例を用い、ゼノビア侯爵の『代理』となる指揮官を立てるべきです! 頂点なき指揮系統の崩壊を放置すれば、いずれ王都の治安は瓦解し、それこそ王家の品位を損なう事態となります」

 

 見事な代替案であった。だが、その実務家としての必死の進言すらも、国王ゼノンは鼻で嗤った。

 

「代理を立てる、だと? それは事実上、ゼノビア家や貴族派の息のかかった者をその座に据え、謹慎という重罰を骨抜きにするということだろう。大罪に対する王室の厳格な処罰を、そのような小手先の都合で形骸化させることなど断じて許されん」

 

『……ならば、軍事の要であり王家に次ぐ格を持つアイギス公爵家から、臨時の代理を打診すればよい。それが国家の治安と指揮系統を修復するための、誰もが納得する完璧な最適解だ。……だが、それは絶対に口にできない!』

 新宰相の背筋を、じっとりと冷たい汗が伝う。

 

 彼が今仕えているのは国家ではなく、第一側妃ヒルデガードである。彼女の真の目的は王都の治安回復などではなく、『己の手駒であるゼノビア家に、王宮最大の武力を取り戻させること』なのだ。

 

 もしここで純粋な国益のためにアイギス公爵家の名を出し、近衛のトップという重要ポストを合法的に他派閥へ渡してしまえば、自分はあの恐ろしい女主人の不興を買い、完全に破滅する。

 

 最強の正論カードを持っていながら、着地点を「ゼノビア家の復権」に縛られている新宰相は、ここで完全に詰んでしまったのだ。

 さらにマルガレーテが、決定的な理由を付け加える。

 

「それに今、学園ではエドワルドを筆頭とした生徒会が『厳格な規則』を敷き、見事に貴族生徒たちを統制しています。我々王室は、それを『次期国王グラクトの威光が隅々まで行き届いている証左』として大いに宣伝している最中なのです」

 

 学園で生徒会が血反吐を吐きながら構築している盤面すらも、王宮の大人たちにとっては「グラクトの権威付け」のための都合の良い手柄でしかない。

 

「グラクトが規則を厳格に浸透させているまさにこの時期に、大元である王室が身内の貴族に甘い裁定を下し、特例などで処罰を形骸化させればどうなりますか。次期国王の厳格な威信は矛盾し、崩れ去ります。……二度言わせないでください、宰相。却下です」

 

 新宰相は、血の気の引いた顔で、無言で深く頭を下げるしかなかった。

 ここに、リーゼロッテとアレクシスが手紙の上で語り合ったような「純粋な法理」の入り込む余地はない。

 

 実務上の治安悪化よりも、指揮系統の崩壊よりも、ただ『次期国王の権威(王室の品位)』こそが最優先され、比較衡量される。それこそが、ローゼンタリアという国家における絶対の「法解釈」であった。

 

 王家の強固な防波堤の前に、ヒルデガードの意を受けた新宰相の進言は、無惨な失敗に終わったのである。

 

 ◇

 

  夜の帳が下りた後宮の奥深く。第一側妃ヒルデガードの私室に赴いた新宰相は、重い足取りで昼間の「進言の失敗」を報告していた。

 

 弁解を重ねる国の最高責任者に対し、豪奢な長椅子に腰掛けたヒルデガードは、扇の奥でスッと冷たい視線を落とした。

 

「……まあ、残念。宰相閣下ほどの御方なら、当然通していただけると思っていたのに」

 いつもなら「激務の疲れを癒してあげる」と艶やかに微笑むはずの彼女が、ふいと背を向けて距離を取る。

 

「私の役に立てないのなら、貴方にこれ以上の『庇護』を与える義理はありませんわね。……お帰りくださいな。貴方が抱える大逆の罪、明日には陛下のお耳に入るやもしれませんわ」

 

「あっ……!」

 その氷のような宣告は、大逆罪という致命的な首輪を嵌められた新宰相にとって、一族の完全なる破滅(死)を意味していた。

 

 新宰相は咄嗟に床に膝をつき、彼女の足元にすがりついた。

 

「ま、待ってくれ! 私はまだ貴女の役に立つ! 代わりになんでもするから、私を……私の一族を見捨てないでくれ!」

 

 それは、権力闘争を生き抜いてきた政治家としての、生存本能に根ざした必死の懇願であった。自らを惨めな犬として低く見せ、相手の庇護欲と支配欲を満たすことで命綱を繋ぎ止めようとするしたたかさ。

 

 足元で懇願する新宰相を見下ろし、ヒルデガードは背を向けたまま、蠱惑的で残酷な笑みを深く刻んだ。

 

 ゼノビア家の復権(武力の回復)が遅れるのであれば、もう一つの脅威である「政軍の結託(宰相の娘とアイゼンガルト公爵家子息の婚約)」を分断する計画だけは、何が何でも強行し、確実に仕留めねばならない。

 

「……何でも、と言いましたわね? ならば」

 彼女はゆっくりと振り返り、すがりつく新宰相の顎を扇の先で持ち上げ、逃げ道を完全に塞ぐための決定的な『念押し』を下す。

 

「以前お約束いただいた、貴方の愛娘・セシリア嬢の『行儀見習い』の件ですが……。来年、グラクトが学園の二年に進級するのと同じタイミングで、確実に王宮へ上げなさい。一切の遅れや言い訳は許しませんわ」

 

「っ……!?」

 すでに承諾させられていた「人質」の要求。その入宮の時期を、わざわざグラクトの進級に合わせるという明確な期日の指定。

 

 それは、軍部のトップであるアイゼンガルト家へ娘を嫁がせる前に、自らの手元に置いて精神的に支配し、婚約を内側から破壊するための布石を「いよいよ実行に移す」という死刑宣告に等しかった。

 

(……セシリア。何も知らず、レオンハルト殿のためだと健気に微笑んでいた、私の愛しい娘……っ)

 新宰相の胸の奥底で、冷たい怒りが爆ぜた。

 

 大逆罪の首輪を引かれ、己が泥水をすするのならまだ耐えられる。だが、最愛の娘の未来を、純真な心を、この権力亡者の私欲のための生贄(駒)として本当に差し出さねばならないのか。

 

 一国の宰相として、そして父親としての激しい憎悪。しかし彼の理知的な頭脳は、氷のように冷たく現在の盤面を弾き出していた。

 

 ここで拒めば、明日には一族郎党が処刑される。今は、完全に自我を失い、首輪に屈した従順な操り人形を演じ切るしかない。いつか必ず、この女の喉笛を噛み千切るその時までは。

 

「……は、はい。承知、いたしました……必ず、セシリアを殿下のもとへ……」

 瞳から一切の光を消し、もはや理性を失ったかのように承諾の言葉を口にすると、ヒルデガードは完全に彼を屈服させたと勘違いし、満足げに目を細めた。

 

「ええ、良い子ですわ」

 毒蜘蛛がふわりと両腕を広げると、新宰相は安堵したように彼女の懐へと沈んでいった。その背中に隠された、決して消えることのない冷酷な殺意を悟られぬように。

 

 国を動かす中枢が、完全に一人の悪女の私欲によって陥落し、最悪の密約が更新された瞬間であった。

 

 ――王宮の奥深くで、親が冷徹な殺意と屈辱を抱えながら、偽りの従属を誓っていたその頃。

 

 遠く離れた学園の空の下では、レオンハルトとセシリアが、互いを思い合いながら交わした『白き軍服の誓い』が静かに息づいていた。

 

 だが、その純粋な約束は、大人たちの底知れぬ欲望と人治の泥濘によって、無惨に引き裂かれようとしている。

 

 忍び寄る王宮のどす黒い闇と、完璧な論理武装を手に入れた帝国の皇子。

 そして、学園という盤面で静かに法治の牙を研ぎ続ける、顔なき第二王子リュート。

 

 それぞれの思惑が複雑に絡み合い、蜘蛛の巣のように運命を縛り付ける中、物語はいよいよ波乱に満ちた【学園二年目】へと突入していく――。

 

 

(第6章 完)

 

 

 

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