リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 古い庇護の拒絶と、女王への忠誠
春の離宮。
学園の長期休暇に合わせて一時的に王宮へ戻っていたリュートは、与えられた執務室の机に向かい、学園裁判の記録と、次年度の制度設計に必要な草案へ静かに目を通していた。窓の外では柔らかな陽光が白い石畳を照らし、庭師たちが丹念に整えた花壇の花々が穏やかに揺れている。
だが、その平穏は次の瞬間、乱暴な足音とともに粉々に踏み砕かれた。
バン、と。
執務室の扉が、ほとんど蹴破るような勢いで開かれる。
「――お兄様!」
珍しく、いや、リュートの知る限りほとんど初めてと言ってよいほど、感情を露わにした声だった。
振り返ったリュートの目に飛び込んできたのは、頰をわずかに紅潮させたリーゼロッテの姿である。いつもの完璧な王女の微笑みはどこにもない。その背後には、蒼白な顔をしたユスティナ――ティナが静かに立っていた。
リーゼロッテは一歩、二歩とためらいなく部屋の中央まで進み出ると、手にしていた書類の束を机の上へ叩きつけた。乾いた音が、やけに大きく室内に響く。
「これは、いったい何のつもりですの?」
リュートは机上へ散らばった紙を見下ろした。そこに並んでいたのは、内務省の回覧記録、離宮へ流れてきた非公式な処理報告、そして学園在学中の自分のもとへ不自然なほど正確な形で届いていた各種情報の整理表だった。いずれも、表には出ぬまま処理されてきた『誰か』の実務の痕跡である。
深紅の瞳が、静かに細められる。
「……誰が、これをまとめた?」
「私ですわ」
答えたのはリーゼロッテだった。声音には怒りがある。だがそれは、盤面を乱された苛立ちではない。もっと生身の、身内に向ける種類の熱だった。
「お兄様が学園に籠もっていたこの一年、内務省の情報整理、各所への伝達、要注意人物の再分類、いくつもの機密の横流しと処理を、誰がやっていたと思っておいでですの。お兄様は『都合の良い文官』がいるつもりで、ずっと使っておいでだったのでしょうね」
そう言って、リーゼロッテは背後のティナの腕を取った。ティナは抗わず、一歩前に出る。白い指先には細かなインク染みと、いくつも潰れたペンだこがあった。目の下には濃い隈が落ち、痩せた頰がこの一年の消耗を雄弁に語っている。
「けれどその都合の良い文官は、人間ですわ。血も肉もある。眠りもせず、感情も持たず、ただお兄様のために書類を処理し続ける便利な機械ではありません」
そこで初めて、リュートの視線がティナへ定まった。
その瞬間、彼の脳内で、これまで匿名の霧の向こうに置いてきた補佐の手つきと、目の前に立つ少女の輪郭が音を立てて一致した。
「……まさか」
ティナは静かに一礼した。それは王女付きの侍女としてでも、内務卿の娘としてでもない。実務家としての、簡潔で無駄のない礼だった。
「はい。これまで殿下のもとへ上がっていた内務省由来の補助資料、および王都側での事前整理の大半は、わたくしが処理しておりました」
リュートは、そこで言葉を失った。学園という閉鎖空間の中で、王都と繫がる情報の流れがあまりにも正確すぎるとは思っていた。リーゼロッテが優秀なのは当然として、その手足の質が尋常ではないことも理解していた。
だが、それが『ユスティナ・セイラ・メルカトーラ本人』だったとは、想定していなかったのである。
「……君が、あの文官だったのか。なぜ名乗らなかった」
問いかけた声音に責める色はなかった。純粋な驚愕と、盤面の認識を根底から覆された者の空白だけがあった。
代わりに答えたのは、またしてもリーゼロッテだった。
「名乗らせなかったのですわ。学園は全寮制。お兄様があそこに隔離される以上、王都からの実務補助は匿名で流していた方が都合が良かった。お兄様も、『誰か有能な手がいる』とだけ思っていれば十分でしたもの」
そこまで言ってから、リーゼロッテの金色の瞳に今度は明確な怒りが灯る。
「ですが、もう限界です。学園二年目以降、あちらの盤面はさらに複雑になる。私が離宮から逐一、細部まで指示を飛ばし続けることはできない。ティナの能力は、もはや『名もなき補佐役』のまま隠しておける規模ではありません」
リュートは静かにリーゼロッテを見た。そこでようやく、妹が感情で踏み込んできたのではなく、実務上の必要と、別種の怒りの両方によってこの場を強制的に開いたのだと理解する。
「……だから、この場で明かしたのか」
「ええ。それだけではありませんわ」
リーゼロッテの声音が、ほんの少しだけ低く沈んだ。
「お兄様はきっと悪気はなかったのでしょう。けれど、悪気がないからこそ質が悪いのです。自分を支える手が誰のものかも知らず、その献身を当然のように受け取り続けていたのですから。この子がどれほどの罪を犯したか、わかっておいでですか。内務省の機密に触れ、父を欺き、王都の裏側で幾度も危険な橋を渡った。すべて、お兄様の盤面を成立させるために。……その血と泥に、お兄様はどう落とし前をつけるおつもりですの?」
痛烈だった。だが、反論はできない。
リュートは黙したままティナを見た。彼女は俯かない。逃げない。ただ静かに、実務報告でもするような顔でそこに立っている。
リュートはゆっくりと立ち上がった。王族としての打算でも、為政者としての合理でもない。もっと単純で、もっと重い責任感が、その深紅の瞳に宿る。
「……わかった。君がこの一年、私の盤面のために流した血と罪は、私の責任でもある。王族として、そして男として、これ以上曖昧なままにはしない。ユスティナ・・セイラ・メルカトーラ嬢――君が望むなら、私は君を側室として迎え、生涯の庇護と責任を負う」
執務室が、水を打ったように静まり返った。
それは、この国において王族が差し出せる最大級の「落とし前」であり、同時に最大限の誠意でもあった。名もなき実務家ではなく、正式な保護下に置き、一生を保証する。古い価値観の中で育ったリュートが、本気で責任を取ろうとした結果がそれだった。
だが。
「――お断りいたします」
返答は、あまりにも早く、そして静かだった。
リュートは、初めて明確に表情を止めた。リーゼロッテも何も言わず、ただティナを見つめている。ティナは震えていなかった。その声音にあるのは怯えでも反抗でもない。すでに整理を終えた実務家だけが持つ、乾いた明晰さだった。
「殿下のお心遣いは、光栄です。ですが、わたくしはその庇護を望みません。わたくしが忠誠を誓い、この命と実務を捧げる相手は――私を『誰かの娘』でも『便利な婚姻材料』でもなく、一人の実務家として見出し、拾い上げてくださったリーゼロッテ様ただお一人です」
その言葉は、決して激情を伴わなかった。だからこそ重い。
「殿下のお仕事をこれまでお手伝いしてきたのも、リーゼ様がそう望まれたからです。学園においても、今後も必要があればわたくしは職務として協力いたします。ですが、それは殿下個人への忠誠とは別です」
リュートは、しばし何も言えなかった。
側室として庇護する――それは確かに、この国の論理においては最大級の責任の取り方だ。だが今、目の前にいる少女は、その古い秩序そのものを静かに退けたのである。
彼女が欲しているのは、男の庇護ではなかった。主を自ら選び、その主のもとで実務を担うという、はっきりした立場だった。そしてその主は、自分ではない。リーゼロッテなのだ。
「……そうか」
絞り出すような声だった。だがそこに怒りはない。ただ、自分の見ていた盤面がすでに塗り替わっていたことを、ようやく飲み込み始めた者の声だった。
「私は、勘違いしていたらしい」
リーゼロッテはそこでようやく、僅かに表情を和らげた。責めるためだけにここへ来たわけではない。兄に、この事実を正面から見せるために来たのだ。
「ええ、お兄様。お兄様はずっと、この子を『守るべき誰か』だと思っていたのでしょう。でも違いますわ。ティナはもう、私の盤面を支える中核です。お兄様のために働くことはあっても、お兄様の所有物にはなりません」
リュートは妹を見た。そこにいるのは、もはや離宮の奥で兄の指示を待つだけの少女ではなかった。王都の裏側を掌握し、自ら手足を持ち、その忠誠を繫ぎ止めている『離宮の女王』だった。
「……見事だよ、リーゼ。君がここまで盤面を育てていたとは、正直、想定以上だった」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
リーゼロッテはほんの少しだけ、いつもの微笑を取り戻した。
リュートは改めてティナへ向き直る。
「ユスティナ嬢。君の意思は理解した。今後、私は君を私の配下としてではなく、リーゼの陣営を支える独立した実務家として扱う。その上で、学園において私への補佐を続けるなら、それはリーゼとの政治的同盟に基づく協力と見なす。……それでいいか」
「はい。それが最も明確で、誤解のない形かと」
乾いた確認。けれどそのやり取りは、この場にいる三人の立ち位置を以前とは決定的に変えていた。兄が庇護し、妹が補佐する形ではない。それぞれが独自の盤面を持ち、必要に応じて手を結ぶ同盟者としての再定義である。
短い沈黙の後、リーゼロッテが小さく息を吐いた。
「……これでようやく、整理がつきましたわね」
「ああ」
リュートも頷く。その眼差しには、まだ整理しきれぬ驚きと、わずかな痛み、そして確かな納得があった。長い間、自分のもとへ正確に届いていた書類と情報。その向こうにいた『顔のない実務家』は、最初から名前と意思を持つ一人の少女だったのだ。そしてその少女は、自分ではなく、リーゼロッテを選んだ。
それは王族としてのリュートにとって小さくない衝撃であり、同時に、為政者としては無視し得ぬ事実でもあった。
「……リーゼ。君はもう、私が守るだけの妹ではないな」
その言葉に、リーゼロッテは一瞬だけ目を細めた。そして、女王のように優雅なカーテシーを返す。
「ええ。ですからお兄様も、どうかお忘れなく。私の手足に手を伸ばすときは、今後きちんと『交渉』してくださいませ」
「肝に銘じよう」
リュートは、小さく息を漏らして笑った。
春の光が、机上に散った紙片を照らしていた。その穏やかさとは裏腹に、この離宮の一室では、王家の力関係がまた一つ、静かに、しかし取り返しのつかない形で更新されていた。
匿名の献身は終わった。影の女王は、その手足を公然と盤上へ上げた。そして第二王子リュートは初めて、妹がすでに自らの王国を築き始めているという事実を、真正面から認めるしかなくなったのである。