リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第1話『事実の重み5』

5 黄金の兆しと、本宮の秤

 

 春まだ浅い本宮の朝。

 柔らかな陽光が差し込む政務室には、季節の穏やかさとは裏腹の、ひどく張り詰めた静けさが満ちていた。

 

 国王ゼノンは決裁待ちの書類から顔を上げ、入室を許された侍医と侍女長を面倒そうに見やった。その隣では、王妃マルガレーテがいつものように一切の感情を表に出さぬまま、静かに続きを促している。

 侍医は一歩進み出て、慎重に言葉を選んだ。

 

「申し上げます。第三側妃ソフィア様に、御子をお宿しになった兆しが確かに見られます。侍医団にて慎重に確認いたしましたが、相違ございません。ただ、まだごく初期にございます。外聞を整えるには早く、胎の安定を見極める期間が必要かと」

 その一言で、室内の空気が目に見えぬ形で変質した。

 

 ゼノンはわずかに眉を上げた。驚きが無いわけではない。だが、それは単純な喜びとも違う。王族における懐妊は、祝福である以前に、即座に盤面を書き換える政治的事象だった。

 

「……そうか。分かった。下がれ。今日ここで聞いたことは、侍医団と侍女長の管理下にのみ留めよ」

「はっ」

 

 侍医たちが恭しく退室し、重い扉が閉ざされる。密室となった政務室で、ようやくゼノンは椅子の背に深く身を預け、低く息を吐いた。

 

「厄介な時に来たな」

「ええ。極めて厄介ですわ」

 マルガレーテは淡々と応じる。

 

「まだ男女も分からず、まして髪と瞳の発現も不明。ですが、宮廷はその程度の不確定要素を待ってはくれません。懐妊した、という事実だけで、すでに十分すぎるほど盤面は揺れます。セラフィナ侯爵家は浮き足立つでしょうし、しかも今は、グラクトの継承評価が完全には固まっておりません」

 

 ゼノンの声に、わずかな苦味が混じる。

「……分かっている。第一王子が王家の正統を体現する“光”であることに変わりはない。だが、その地位はもはや血筋だけで盤石とは言い切れん。学園での振る舞い、臣下の評価、そして今後どれだけ“王としての実”を積めるか。そこを見極めねばならぬ段階に入っている。そんな中でのソフィアの懐妊だ。子が女子であれ、あるいは王家の徴を十分に備えぬ子であれ、揺れは限定的で済む。だが、もし男子で、しかも金髪金眼であれば……話は別だ」

 

 マルガレーテは、ゼノンの思考の先を正確になぞるように、静かに言った。

 

「王家の正統性は、まず見た目で信じられてしまいます。理屈ではありません。民衆も貴族も、眩い色を“天の徴”として受け取り、勝手に熱狂し、勝手に跪く。それがこの国の醜くも便利な現実ですわ」

 ゼノンは苦々しく鼻を鳴らした。

 

「……まったく、面倒な国だ」

「ですが、その面倒な国を統べると決めたのは、陛下ですわ」

 

「分かっているさ」

 吐き捨てるように言いながらも、ゼノンの目には一瞬だけ人間らしい疲労の色が浮かんだ。子が宿るたび、祝う前に勢力図を計算しなければならない。誰が喜び、誰が焦り、誰が先に毒を盛ろうとするかまで考えねばならない。それが王であるということだった。

 

「ヒルデガードが騒ぐな」

「ええ。間違いなく」

 マルガレーテの声は、どこまでも平坦だった。

 

「今のあの女にとって、グラクトは唯一の拠り所です。そこへ同じ王家の子が増える。しかもソフィアの腹から、となれば黙って見ているはずがありません。放っておけば、余計な真似をするでしょう。ですから、放ってはおきません。表向きは、あくまで静養と胎の安定を優先する名目で人を絞ります。ソフィア自身にも余計な発言はさせません。あの女は賢いですが、実家の者どもは総じて軽い。セラフィナが先走れば、ヒルデガードに口実を与えるだけです。最初に手綱を握るのはこちらでなければなりません」

 ゼノンは重く息を吐いた。

 

 ソフィアの懐妊は確かに王家にとっての補強でもある。万が一に備える“予備”があるという事実は、体制の安定に資する。だが同時に、その“予備”が存在するだけで、周囲の人間は勝手に次の王を夢見始めるのだ。

 

「子がまだ形も定まらぬうちから、周りが勝手に王座を見て騒ぐ。つくづく愚かしい」

「愚かしいからこそ、管理が必要なのです」

 マルガレーテはそう言って、机上の呼鈴に指を伸ばした。

 

「この件はまだ“慶事”としては扱いません。まずは極秘裏に守りを固めます。そのうえで、しかるべき時期に、しかるべき形で公表する。ソフィアの居室の警備を強め、侍女を選別し、侍医団を囲い込み、第一側妃側の人間を徹底して遠ざけます。必要とあらば、後宮の一部を実質的に封鎖してでも、この胎は守り切る」

 

「……任せる」

「それと、グラクトには、今の段階では知らせません」

 ゼノンはわずかに顔をしかめた。

 

「理由は」

「学園の二年目が始まるこの時期に、余計な私情を与えるべきではないからです」

 マルガレーテは初めて、ほんのわずかに瞳を細めた。

 

「あの子はいま、ようやく“自ら立とうとする王”として形を取り始めている最中です。ここで本宮の盤面まで背負わせれば、無用に軸がぶれます。王妃としての判断ですわ」

 しばしの沈黙。

 

 ゼノンは、その冷徹さに反発する気力すら持たぬように、重く目を閉じた。

「……好きにしろ」

 

「そういたします」

 呼鈴が鳴り、外で控えていた侍女が静かに入室する。マルガレーテは一切の揺らぎなく、次々と必要な指示を下し始めた。誰をソフィア付きから外すか。誰を残すか。どの侍医を専属にするか。第一側妃側の人間をどこまで遠ざけるか。どの名目で、どの範囲まで後宮の出入りを制限するか。

 

 その声音には、母性よりも、王宮という巨大な機構を管理する統治者の冷たさだけがあった。

 

 ゼノンはそんな王妃の横顔を眺めながら、ふと、どうしようもなく乾いた気分になった。本来ならば祝福されるべき命の芽吹きが、誰より先に“警備計画”と“派閥均衡”の対象になる。だが、この王宮ではそれが正しい。それが正しいからこそ、皆どこかで壊れていく。

「……子はまだ、生まれてもいないというのにな」

 

「だからこそですわ」

 マルガレーテは一拍も置かずに答えた。

 

「生まれる前だからこそ、守る価値がある。そして、生まれる前だからこそ、潰そうとする者も出るのです」

 春の光はやわらかかった。だが、その光の届く本宮の最奥で、新たな命はすでに祝福ではなく、権力闘争の火種として秤にかけられていた。そしてその見えぬ火種は、やがて学園で法を学び始めた若き王子たちの盤面にまで、静かに、しかし確実に影を落としていくことになる。

 

 

 

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