リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第1話『事実の重み6』

6 白き誓いと、すれ違う死地

 

 春の陽射しが、アイゼンガルト侯爵邸の庭園にやわらかく降り注いでいた。

 

 よく手入れされた芝生の緑は目に痛いほど鮮やかで、石畳の小径の脇には、季節の花々が静かに咲き揃っている。遠くでは噴水の水音が絶え間なく響き、風が梢を揺らすたび、木漏れ日がテーブルクロスの上でゆらゆらと揺れた。

 

 その穏やかな午後の庭園を、白い軍服姿の少年が歩いてくる。

 

 レオンハルト・デイル・アイゼンガルト。軍部の頂点たる元帥家の嫡男であり、王立学園への入学を間近に控えた十四歳の少年は、今日は訓練着でも普段着でもなく、家名を象徴する白き正装に身を包んでいた。ただし、それは軍務のための礼装ではない。本人がそこまで意識しているかはともかく、その姿はあまりにも真っ直ぐで、あまりにも誠実で、見る者に「決意」という言葉を思わせるものだった。

 

 庭園の一角、木陰の丸テーブルには、すでにセシリアが座っていた。淡い色のドレスに身を包み、膝の上には一冊の本。だが、文字を追う視線はほとんど頁の上に留まっていない。レオンハルトが現れた瞬間から、藤色の瞳は彼の姿をじっと映し、頰をほんのりと染めていた。

 

「……レオン様」

 その声には、いつもの穏やかな親しみと、少しの緊張が混じっていた。彼女にとってもまた、今日はいつもと違う日なのだと分かる響きだった。

 

 レオンハルトはテーブルの前まで来ると、一度深く息を吸ってから、彼女の前に立った。

 

「待たせてしまったな、セシリア」

「いいえ。……その、お召し物が、とてもよくお似合いですわ」

 セシリアはそう言って微笑んだが、その微笑みは普段のやわらかなものより少しだけ不安げでもあった。何か大事な話があるのだと、彼女も気づいているのだろう。

 

 レオンハルトはほんの一瞬だけ視線を泳がせたあと、意を決したように姿勢を正した。

 

「来年、私は王立学園へ入学する。そこで私は、貴族としての教養だけでなく、これから先、王国軍を率いる者として何が必要かを見極めなければならない。武だけでは足りない。命令を下す側に立つなら、法も、秩序も、国家の仕組みも知らなければならない。……今のままでは、父上の背中には到底届かない。だから私は、学園で学ぶ。貴族の面目や家格のためじゃない。未来の軍を率いるための……真の正義を知るために」

 

 セシリアは、ただ黙ってその言葉を聞いていた。彼の声音には、少年らしい背伸びでは済まされない切実さが宿っていたからだ。

 

 王国最強の武門に生まれた者として。ただ剣が強いだけではなく、軍という巨大な暴力を預かる者として、何を守り、何に従い、どこで刃を抜くべきかを知らなければならない。レオンハルトは、その責務を自分なりに正面から見据え始めている。

 

 やがてセシリアは、小さく頷いて言った。

「レオン様は……本当に、真っ直ぐですわ」

 

「真っ直ぐでなければならないだけだ。私は、迷っている暇のない家に生まれた」

 そう返してから、レオンハルトは少しだけ表情を和らげた。

 

「だが、だからこそ思う。学園にいる間、お前が王都で待っていてくれることが、私には何より心強い。お前は自分では気づいていないだろうが、私は昔から、お前の前では余計な力を入れずに呼吸ができた。お前がそこにいてくれるだけで、私は自分が何のために強くなりたいのかを忘れずに済む」

 

 あまりにも真っ直ぐで、飾りのない言葉だった。それが社交辞令でも綺麗な口説き文句でもなく、彼の本音であることを、セシリアは誰よりもよく知っていた。

 

 頰が熱くなる。胸が苦しいほど高鳴る。けれど、その甘さに浸るだけの時間は、今の二人にはなかった。

 セシリアは少しだけ目を伏せてから、静かに言った。

 

「……私も、ただ待っているだけではいたくありません。レオン様が学園で未来の軍を担うための学びを得るのなら、私もまた、貴方の隣に立つにふさわしい人間になりたいのです。

 ちょうど、お父様からもお話がありましたの。来年よりしばらく、本宮にて第一側妃様のもとで『行儀見習い』として学ぶことになるかもしれない、と。

 未来の侯爵夫人として、王宮の作法や宮廷でのふるまいを身につける良い機会だと。……正直、少し怖くもあります。でも、レオン様が前に進むのに、私だけ何も知らず守られているだけではいたくありません。

 いつか貴方が軍を率いるその時、隣に立つ者が何も知らぬ箱庭の娘では、きっと駄目なのでしょう? でしたら私も、自分の場所でできることを学びたいのです」

 

 『本宮。第一側妃ヒルデガードのもと』

 

 レオンハルトの眉が、わずかに動いた。軍部の人間である彼にとって、それは決して手放しに喜べる響きではなかった。だが、セシリアの口ぶりには不安よりも、前向きな決意が強かった。

 

 彼はしばらく言葉を失った。彼女を守りたいと思っていた。できることなら、王宮の濁った水など一滴たりとも触れさせたくなかった。この清らかな庭園のまま、やさしい本の頁の間で笑っていてほしいと、勝手なほどに願っていた。

 

 だが今、目の前にいる少女は、彼が思っていたよりはるかに真剣だった。誰かに守られるためではなく、自分の意志で、自分の足で、未来の隣へ立とうとしている。その覚悟を、軽んじるわけにはいかなかった。

 

 レオンハルトは静かに彼女の前へ片膝をついた。手袋を外し、その白い指先をそっと取る。

 

「ならば約束してくれ。私が学園で学び、剣を磨き、法と秩序を知るように、お前もまた、自分の場所で生き抜いてくれ。どれほど離れていても、私は必ず前に進む。だからお前も、どうか俯かないでくれ。そしていずれ、互いに胸を張って並び立とう。私はそのために学園へ行く」

 

 セシリアの瞳が揺れた。涙ではない。けれどそれに近い光が、春の陽射しを受けてきらりと滲んだ。

 

「……はい。私も、そのために本宮で務めを果たします。レオン様にふさわしい淑女になれるよう、逃げずに学びます」

 そう答えたあと、彼女は少しだけ困ったように微笑んだ。

 

「ですが……もし私が、うまくできず泣いてしまったら……その時は笑わないでくださいませね」

 

「笑うものか」

 レオンハルトは即答した。

「お前が泣くようなことがあれば、その時は私が許さない」

 

「ふふ……それでは、第一側妃様にまで剣を向けてしまいそうですわ」

「必要なら向ける」

 あまりにも真顔で返され、セシリアは思わず小さく吹き出した。その笑いにつられるように、レオンハルトの表情もようやくやわらぐ。

 

 春の庭園に、二人の笑い声が淡くこぼれた。それはまだ幼く、それゆえにこそ痛いほど純粋な、未来への誓いだった。

 けれど、その言葉が向かう先にある現実は、あまりにも残酷だった。

 

 レオンハルトが足を踏み入れる王立学園は、もはやただの学び舎ではない。そこはリュートが法治という刃で特権階級の喉元を切り裂こうとしている、静かな戦場だった。真の正義と法を学ぶという彼の志は間違っていない。だが、その学びの先に待つのは、血統も品位も容赦なく試される最前線である。

 

 一方、セシリアが向かう本宮もまた、淑女教育のための美しい宮廷ではなかった。第一側妃ヒルデガードの手元へ入るということは、軍部を縛るための人質として籠の中へ入ることに等しい。

 

 彼女はまだ、そのことを知らない。

 いや。知らないからこそ、これほど無垢な決意で笑えるのだ。

 二人は最後にもう一度だけ視線を交わした。互いを信じている。未来を疑っていない。今は離れても、やがて再び並び立てると、本気で信じている。

 

 だが、王宮の奥ではすでに、彼らの知らぬところで別の盤面が進んでいた。権力を繫ぐための婚約。軍部を縛るための人質。側妃の思惑。宰相の弱み。そのすべてが、何も知らぬ若い二人の純愛を、都合の良い駒として盤上へ配置しようとしている。

 

 春風が吹き抜ける。セシリアの髪を揺らし、レオンハルトの軍服の裾をかすかに翻した。その光景は、ひどく美しかった。だからこそ、その先に待つ断絶は、よりいっそう残酷である。

 

 白き軍服の少年は、法治の最前線へ。

 深窓の令嬢は、人質の鳥籠へ。

 最も純粋な二人が、それぞれ別の死地へと歩き出していく。

 その事実を知る者は、まだこの庭園には誰もいなかった。

 

 

 

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