リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 イベント再開と、奇妙な安らぎ
入学式という大仰な舞台が終わり、王立学園はようやく日常の雑音を取り戻し始めていた。もっとも、その「日常」なるものも、この箱庭においては身分と視線と沈黙によって精密に区切られた、不自然極まりない代物でしかない。
だが、レティシアにとって、そんな現実の息苦しさはほとんど意味を持たなかった。
『ここからよ……! ここからが、本当の学園ルート開始!』
子爵家の令嬢として与えられた自室の鏡台の前で、彼女は何度も髪を整え、何度も笑顔の角度を確かめていた。脳内にあるのは、王立学園という舞台の政治力学ではない。前世で繰り返し遊んだ乙女ゲーム『ローズ・クラウン』のイベント表と、そこから逆算した最短攻略手順だけである。
第一王子グラクト。彼こそが彼女の「最推し」であり、絶対に外せない本命ルートの攻略対象だった。しかも、自分には他の令嬢たちにはない、決定的なアドバンテージがある。あの王都のパレードの混乱の中で、確かに一度、彼の視界に入っているのだ。
『最初の印象は大事。パレードで顔を覚えられてるなら、今日は「偶然の再会イベント」になるはず……! ここで無理に距離を詰めすぎず、でもちゃんと印象に残るようにして……』
そんな甘い計算を胸に、レティシアは式後の人の流れを観察し始めた。
王族は自由に動けるようでいて、実際には護衛と取り巻きと教師たちの視線に囲まれている。だが、今年のグラクトは去年までよりも遥かに忙しい。生徒会長としての説明、教師陣との短い打ち合わせ、新入生への儀礼的な応対――その合間には、どうしてもほんのわずかな「人の薄い瞬間」が生まれる。
そこを、レティシアは待っていた。
◇
午後の回廊。
大講堂から少し離れた、中庭へ抜ける石造りの渡り廊下。上級貴族たちは各々の派閥ごとに群れ、教師は出入り口側へ集中している。王族の足を止めるには不自然すぎず、なおかつ周囲の耳が多すぎない場所。
レティシアはそこで、まるで偶然を装って立ち止まった。
ほどなくして、数名の生徒と教師を従えたグラクトが、こちらへ歩いてくる。陽光を受けた金髪は眩しく、纏う空気は相変わらず近寄りがたい。けれど壇上で見せた先ほどの宣誓のせいか、その横顔には去年までにはなかった硬質な疲労が滲んでいた。
それを見た瞬間、レティシアの胸はきゅっと高鳴った。
『来た……! ここで決めるのよ、レティシア!』
彼女は一歩踏み出し、ぱっと花が咲いたような笑みを浮かべた。
「グラクト殿下。……あの、覚えていらっしゃいますか? 王都のパレードの時、助けていただいたことがあって……」
取り巻きの視線が、一斉に彼女へ向く。その中には露骨な不快も、値踏みも混じっていたが、レティシアはまるで気づいていない。
グラクトの足が止まる。隣に控えていた生徒の一人が眉をひそめたが、グラクトは手で制した。
「パレード……?」
一瞬だけ、グラクトの瞳に探るような色が走った。彼の記憶の中には、確かにあの日、喧噪の中で転倒し、自分が手を差し伸べた下位貴族の少女の顔が残っていた。治癒魔法をかけたあの出来事を忘れるはずがない。けれど、それを今ここで持ち出されるとは思っていなかったのだろう。声音にはわずかな戸惑いがあった。
レティシアはそれを好感触だと受け取った。
「はい。ほんの少しの出来事でしたけど……私、ずっと忘れられなくて。今日、入学式で殿下のご宣誓を聞いて、やっぱりあの時の方だってすぐ分かりました。さっきのご宣言……本当に素敵でした。身分じゃなくて、ちゃんとルールで守るって。あんなふうに言えるなんて、すごいです」
周囲が微かにざわつく。王族に対して、下位貴族の令嬢がここまで臆せず言葉を重ねるのは、この学園では明らかに異質だった。だがレティシア本人にとっては、これもまた「ヒロインなら当然の振る舞い」でしかない。
打算も、遠回しな媚びもない。
少なくともグラクトには、そのように聞こえた。
もしこれが上位貴族の令嬢であれば、そこには必ず派閥の思惑が透けて見える。もしこれが下心ある取り入りなら、もっと露骨に、もっと計算高く、王子の威光や将来性へ寄りかかる言葉を選んだだろう。
だが目の前の少女は、そうではない。この場に漂う緊張も、自分に話しかけることの危うさも、半分ほど理解していないような顔で、ただ真っ直ぐに「すごい」と口にしている。
それが、グラクトには妙に分からなかった。
「……そうか」
返せたのは、それだけだった。
本来なら、軽く労って先へ進めばよい。あるいは、身分を弁えぬ接触としてもっと冷たく切り捨ててもよい。だが、そうしきれない。彼女の言葉には、王家の威光にすり寄る粘ついた気配がなかった。それどころか、今日一日ずっと浴び続けてきた「殿下なら当然」「次期国王にふさわしく」という重たい期待のどれとも違っていた。
ただ、自分が口にした言葉そのものに反応している。
それは奇妙だった。奇妙で、少しだけ、安堵した。
裁判制度の整備。学則の拡張。王妃の視線。エドワルドの期待。生徒会長としての責務。ここ数日、いや春休みの終わりからずっと、彼の周囲には「役割」しか存在しなかった。
正しい王子であれ。威厳を示せ。失敗するな。この盤面で価値を証明し続けろ。
そうした無数の圧力に削られた心には、レティシアの無邪気な賞賛は、理解不能であるがゆえに、かえって雑味のないものとして響いたのである。
グラクトは短く息を整えると、王子としてごく標準的な返答を返した。
「お前は……新入生だったな」
「はい。レティシア・ラナ・ハーテスです」
「そうか。入学早々、戸惑うことも多いだろう。学園は去年までとは少し違う。困ることがあれば、規則に従って申し出よ」
それは王子としてはごく標準的な返答だった。
だが、レティシアにとっては違う。
『名前、覚えてくれた……!』
胸の中で花火が弾ける。しかも「困ることがあれば申し出よ」だなんて、どう考えてもヒロインへの特別な導線ではないか、と彼女は真剣に思った。
「はいっ。ありがとうございます、殿下!」
弾むような返事。その明るさに、グラクトはごくわずかに目を細めた。
『――奇妙だ』
目の前の少女が、自分を取り巻く政治の泥を一切知らぬのだとしたら、それは危うい。だが逆に、全部理解した上でこの無防備さを演じているのだとしたら、それはもっと不気味だ。
どちらにせよ、得体が知れない。なのに、不思議と遠ざけきれない。
一方のレティシアは、そんなグラクトのわずかな沈黙すら好意的に解釈していた。
『分かる……! これ、表向きはちゃんとしてるけど、内心ではちゃんと気にしてくれてるやつ! やっぱりグラクト様ルート、もう始まってるんだわ……!』
彼女の中では、すでに「再会イベント成功」の文字が華々しく点灯していた。パレードでの出会い。入学式の演説。廊下での偶然の再会。名前を覚えられ、優しく言葉をかけられる。前世のゲーム知識に照らしても、どう見ても順調だった。
一方のグラクトに残ったのは、まるで説明のつかない小さな違和感と、そこに混じる微かな安堵だけだった。周囲の視線がある以上、それ以上立ち止まるわけにはいかない。
グラクトは短く頷くと、再び歩き出す。
レティシアはその背中を、きらきらした目で見送った。グラクトは振り返らなかったが、数歩進んだところでほんのわずかに歩調を乱した。
たった数分の接触。
けれどその短いやり取りは、二人にまったく違う意味を残した。
レティシアにとっては、「正ヒロインとしての手応え」であり。
グラクトにとっては、「政治では説明できない、奇妙に心の力が抜ける異物」だった。
甘い確信を深める少女と、得体の知れぬ空白を抱える王子。その致命的なすれ違いは、まだ誰にも気づかれぬまま、静かに次の歪みへと繫がっていくのだった。