リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 秩序の軋みと、過剰な事実の発生
同じ日の夕刻。
授業と諸手続きが終わり、王立学園の大食堂には二年生以上の上級生と、まだ空気を読みきれない新入生とが入り混じり、独特のざわめきが満ちていた。
高い窓から差し込む西日が、長い食卓と白い皿を血のように赤く染めている。
席順を定める明文規則は、去年、生徒会が布告した学則によってすでに大きく修正されていた。少なくとも表向きは、特定の家格による一方的な占有は許されない。早く来た者が座り、食事を取り、静かに退く。それが新しい建前である。
しかし、建前が根づくより早く、感情は軋む。
とりわけ、己の家格だけを唯一の拠り所として生きてきた中位貴族たちにとって、それは耐え難い変化だった。
その日、レティシアは食堂の南寄り、窓際から三つ目の長机に座っていた。新入生の席としては悪くない位置だ。壁際すぎず、中央すぎず、出入口も見渡せる。周囲には同学年らしい子爵家や男爵家の子女が数名、少し離れた別卓には平民出身の特待生たちも見える。
彼女自身はそんな配置の政治的意味など何一つ意識していなかった。
ただ脳内では、相変わらず別の計算が回っている。
『――――食堂イベント。攻略対象かライバル令嬢と接触する王道の場面。ここで印象を残せば、次の好感度上昇に繫がるわ』
現実の王立学園における食堂は、身分秩序と学則が最も露骨に衝突する危険地帯だったが、レティシアにはそれが分からない。彼女に見えているのは、まだ「物語の舞台」としての都合の良い輪郭だけだった。
だからこそ、その軽率さは目立つ。
彼女は給仕に礼を言い、運ばれてきたパンと温かいスープに手をつけながら、近くを通り過ぎた上級生たちに無邪気な笑みを向けた。しかも、その中には一年目から暗黙の特権意識を保ち続けている伯爵家の子息たちの一団がいた。
彼らの足が止まる。
先頭にいたのは、二年の伯爵子息だった。端正ではあるが、その整った顔立ちは、己が「当然に上」であると信じて疑わぬ者特有の歪みを孕んでいる。去年までは、こうした位置の席に下位の者が座ること自体、彼らの前でほとんど起きなかった。学則施行以後も、下位の者の側が自主的に遠慮していたからだ。
だが、目の前の少女は違う。
子爵家の分際で、悪びれもせず、平然とそこに座っている。しかも最近、第一王子にしつこく近づいているという噂まである。
伯爵子息の顔から、あからさまに不快げな色が浮いた。
「……おい」
低い声だったが、周囲には十分に届いた。
食堂の空気が、わずかに止まる。
レティシアは顔を上げる。
その瞬間でさえ、彼女の脳内にはモブ貴族の嫌味イベントが浮かんでいた。ゲーム的にはよくある。ここを機転や根性で乗り切れば、攻略対象に見直される。そんな期待すらあった。
「はい?」
返事は、あまりにも軽い。
敬意がないというより、危機感がない。
伯爵子息の眉がぴくりと動く。
「そこは、本来お前のような家格の者が座る席ではない」
「……え?」
レティシアは本気で意味が分からず首を傾げた。
その反応が、さらに火に油を注ぐ。
「聞こえなかったのか。身分を弁えろと言ったんだ」
周囲の上位貴族たちが、露骨にせずとも気配で同調する。直接口を挟まないのは、去年の学則を意識しているからだ。だが、否定もしない。視線だけでそこはお前の位置ではないと圧をかける。
レティシアはそこでようやく、これは単なる嫌味ではなく、席を立てと言われているのだと理解した。だが理解の仕方が、やはり甘い。
「でも……空いてましたし」
場がさらに冷えた。
その言葉は、学則の建前に照らせば正しい。だがこの場において、それを口にすること自体が、伯爵子息の顔を真正面から潰す行為になる。
「空いていれば座ってよい、と?」
「え、ええ……だって、学則では」
その一語を聞いた瞬間、伯爵子息の唇が冷たく吊り上がった。
「学則。なるほど。最近の新入生は、紙に書かれた文字を盾に、上の者へ口答えしてもよいと教わるらしい」
レティシアはようやく、ほんの少しだけ空気のおかしさに気づく。だがもう遅い。引き返す地点は過ぎていた。
「口答えというか……私は、ただ」
「ただ?」
伯爵子息は一歩近づく。テーブルを挟んでいた距離が、一気に詰まる。
「子爵風情が、王立学園で伯爵に『ただ』などと口をきくのか」
その言い方には、明確に身分差を誇示する意図があった。周囲に聞かせるための言葉。お前と私は違う、お前は下だ、と空間全体へ再確認させるための言葉。
レティシアの隣にいた令嬢が、青ざめて少し椅子を引いた。正面の席にいた男爵家の少年も、巻き込まれまいと目を伏せる。誰も助け舟を出さない。出せない。ここで伯爵家の機嫌を損ねることは、そのまま家や保護者に波及しかねないからだ。
レティシアは喉を鳴らした。
この世界はゲームだと思っていた。少なくとも、攻略対象のそばにいる限り、自分は物語の庇護を受ける側だとどこかで思っていた。だが今、目の前にあるのは、悪役令嬢が嫌味を言う程度の軽いイベントではない。ただ「下位の令嬢が上位者を不快にさせた」という、それだけで現実に圧力が発生する空間だった。
「……申し訳、ありません」
とりあえず謝れば済むかもしれない。
そう考えて立ち上がろうとした、その動きすら遅かった。
「今さら遅い」
伯爵子息は机の端に手をかけ、わざと音を立てて身を乗り出した。
「学則を盾にするほど頭が回るなら、誰に対してどう振る舞うべきかくらい理解しておけ。第一王子殿下の周りをうろついていると聞いたが、身の程も知らぬ子爵令嬢が、よくもまああそこまで――――」
そこで言葉が切れたのは、侮蔑のためではなく、怒りが混じり始めていたからだ。彼にとって問題なのは席だけではない。最近のレティシアの振る舞いそのものが、上位貴族たちの間で「秩序を乱すもの」として積もりに積もっていた。
「お前のような家の娘が、王族の周囲をふらつくだけで目障りなんだ」
その言葉は、ほとんど恫喝だった。
家格、王族、目障り。すべてが「お前は越えてはならぬ線を越えた」という意味で並んでいる。
レティシアは完全に気圧された。
だが、ここで本当に口を閉ざしてさえいれば、まだ暴力までは至らなかったかもしれない。
「……そんな言い方、ないでしょう」
ごく小さな反発。
現代日本の感覚からすれば、当然の言い返し。
だがこの場では、それが決定打になった。
伯爵子息の目が据わる。
「何だと?」
「だって、私は別に、何も悪いこと――――」
最後まで言い切ることはできなかった。
乾いた音が、食堂の空気を裂いた。
傾いた西日がまるで凝固した血のように石床を赤く染める中、伯爵子息の手が、ためらいなくレティシアの頰を打っていた。強く、はっきりとした平手打ち。怒りに任せた勢いだけのものではなく、「黙らせる」意図を持って振り抜かれた一撃だった。
レティシアの顔が横へ弾かれ、椅子の脚が床を擦って嫌な音を立てる。次の瞬間には身体ごとバランスを崩し、彼女は冷たい石床へ肩から倒れ込んだ。食器が鳴り、スープがこぼれる。
誰かが短く息を呑み、誰かが顔を逸らした。
レティシアは床に手をつき、数拍遅れて頰の熱と痛みを理解した。じんじんとした生々しい痛み。冷たい石の感触。ゲームの演出でも、漫画の記号でもない、現実の一撃だった。視界が揺れる。耳の奥で、ざわめきが遠くなる。ただ、頰に残る熱だけが、これは本物だと告げていた。
「身の程を教えてやっただけだ」
伯爵子息は見下ろしながら吐き捨てた。その言い方には、己の行為を暴力ではなく正当な指導だと位置づける強い自負がある。
「貴族社会の秩序も理解できぬ娘が、軽々しく王族に近づくな。お前のような愚かな娘一人の軽率さが、どれほど周囲に迷惑をかけるか、その程度は覚えておけ」
そこには、明確な因果のねじ曲げがあった。
自分が打ったのではない、お前が打たせたのだ。力を持つ側が常に使う、典型的な責任転嫁の論法である。
レティシアは返事ができない。
痛みと、屈辱と、何よりも「本当に殴られた」という現実の方が早く、思考が追いつかなかった。彼女の目尻に、反射的に涙が滲む。
それを見て、伯爵子息の後ろにいた一人が小さく鼻で笑った。
「ようやく分かったようだな」
「最初からそうしておけばよかったものを」
責任を分散するような、軽い同調。
だがその一つ一つが、「暴力はここでは異常ではない」という空気を補強していた。
さらに悪いことに、床に倒れたレティシアへ手を貸す者は誰もいない。近くの下位貴族たちは目を伏せ、平民特待生たちは硬直し、給仕たちは職務上の限界を越えられず凍りついていた。
つまりこの瞬間、事実として成立していたのは一つではない。
上位者が家格を誇示したこと。
その言葉によって相手を萎縮させたこと。
公衆の面前で有形力を行使したこと。
周囲がそれを止められなかったこと。
そして、被害者が実際に床へ倒れ、身体的・心理的に明確な侵害を受けたこと。
だがその場の誰も、まだそれを学則的な条文に照らし合わせては見ていない。
ここではただ、空気と力関係が支配しているだけだった。
伯爵子息はなおも言葉を重ねた。
「立て。自分の席を弁えろ。次は頰で済むと思うなよ」
脅しであることを隠そうともしない言い方。
次があると明示することで、単発の叱責ではなく、継続的な支配の意図すら示していた。
レティシアは床に手をつきながら、どうにか身体を起こそうとする。頰が熱い。手のひらが震える。喉の奥が引きつる。それでも彼女の頭のどこかでは、まだ信じたくない気持ちが残っていた。
『――――こんなの、ゲームじゃない。でも、ここで泣き崩れたら負ける。何か言わなきゃ。イベントを巻き返すための、ヒロインらしい台詞を……!』
その思考自体が、現実とのズレをさらに深くしていく。
「……私は、ただ」
かすれた声が漏れた、その時だった。
食堂の出入口側で、ざわめきが一段、質を変えた。
それは単なる野次馬の気配ではない。空気が道を開ける時のざわめきだった。誰かが来る。それも、この場の力関係を一変させるだけの存在が。
伯爵子息がわずかに顔を上げる。周囲の視線も、一斉に同じ方向へ向いた。
石床を踏む足音が、真っ直ぐこちらへ近づいてくる。
その瞬間になって初めて、食堂全体が「これはただの躾ではなく、明確な事件だったのではないか」という後追いの認識を持ち始めていた。
そして床に手をついたままのレティシアだけが、涙で滲んだ視界の中、その足音に対してなお場違いな期待を抱いていた。
『――――誰か来る。もしかして、ここで』
だが、次にこの場へ入ってくる者が、彼女の甘い想像を救うためではなく、積み上がった事実を「違法性のある事件」として確定させるために来るのだとは、まだ理解していなかった。