リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
6 現行犯拘束と、喜劇の確信
石床を踏み鳴らす足音は、一直線にこちらへ近づいてきた。
人波が割れる。
まず食堂へ踏み込んできたのは、南のヴィレノール公爵家嫡男ライオネルだった。獣じみた鋭さを宿した翠眼が、床に倒れたレティシアと、その前に立つ伯爵子息、そして周囲の萎縮した空気を一息に見渡す。その後ろには、つい先ほど生徒会室で風紀官への志願を済ませたばかりの白き軍服の少年――――レオンハルト・デイル・アイゼンガルトの姿もあった。
食堂の空気が、今度こそ決定的に変わる。
その光景を見た瞬間、頰の痛みで呆然としていたレティシアの脳内で、ばらばらになっていたものが一気に繫がった。
『――――ライオネル。レオンハルト。食堂での暴力事件。そして、その後に起こるはずの公開裁判』
殴られた衝撃で止まりかけていた思考が、別の方向へ一気に跳ね上がる。
『そ、そうだ……! これ、ただの嫌がらせイベントじゃない……! ここ、攻略対象が助けに来る法廷分岐イベントの導入なんだ……! ライオネルとの遭遇イベントで、レオンハルトの正義ルートも同時発生して……その先にグラクト様の裁判イベントがある――――!』
涙で滲んだ視界の向こうで、現実はまるで彼女の妄想を肯定するように役者を揃えていた。ライオネルという危険な野獣。レオンハルトという白き騎士。そしてこの事件が、きっとグラクトの前へ持ち込まれる。
『やっぱり……私、ちゃんとメインルートに入ってる……!』
レティシアの胸に、恐怖と痛みと同時に、場違いな高揚が灯った。
だが、現実の方は彼女の期待など一顧だにしない。
ライオネルは一歩進み出ると、低く、静かで、それゆえに余計に危険な声で言った。
「……ほう。食堂のど真ん中で、ずいぶん派手にやってくれたじゃねえか」
伯爵子息は一瞬怯んだが、すぐに強引に胸を張った。相手が南の公爵家嫡男だろうと、自分もまた伯爵家の人間である。下位の者を叱責しただけだと押し通せばいい。そういう甘い計算が、その顔に透けて見える。
「これは我が家格に基づく当然の指導です。子爵家の娘が身分を弁えず、王族の周囲で――――」
言い終える前に、ライオネルが一歩で間合いを潰した。
次の瞬間、伯爵子息の腕が後ろへ捻り上げられる。悲鳴が上がるより早く、ライオネルは相手の身体を食堂の長机へ叩きつけるように押さえ込み、その耳元で獰猛に笑った。
「指導? 学則第四条、暴力の禁止。加えて、身分を笠に着た威圧と恫喝。しかも大勢の前で有形力まで行使しておいて、よくもまあそんな寝言が吐けるな」
「は、離せ……! 貴様、相手が誰だか――――」
「知ってるさ。伯爵家の坊ちゃんだろ。だから何だ。学則の前でそれが正当な理由になると、まだ本気で思ってんのか?」
周囲にいた上位貴族たちがざわめく。だが、誰一人として前へ出ない。相手がライオネルであることも大きいが、それ以上に今ここで口を挟めば、自分まで「成文法に逆らう側」として視線を浴びることを本能的に察していた。
その沈黙を断ち切るように、レオンハルトが一歩前へ出た。純白の軍服はまだ新しく、しかしその背筋には次期元帥家の嫡男として叩き込まれた厳格な矜持が宿っている。
彼は床に座り込むレティシアを一瞥し、それから伯爵子息へまっすぐ視線を向けた。
「私は今、この場で見た。被害者が着席している状態で、貴殿が身分差を理由に威圧し、明確な拒絶の意思表示があったにもかかわらず、平手を打った。暴行の構成要件を完全に満たしている。その結果、彼女は椅子から転落した。私はその事実を、アイゼンガルト家嫡男として明確に証言する」
それはもう、単なる仲裁ではない。
客観的事実の固定だった。
伯爵子息の顔色が変わる。平民や下位貴族の証言ならば、後からいくらでも揉み消せた。だが、アイゼンガルト家嫡男の現認は違う。王国最上位の武門の名の下で行われる証言は、中位貴族の言い逃れを許さない重さを持つ。
「ち、違う! あれは転んだだけだ! 私はただ――――」
「では確認する」
レオンハルトは一歩も引かなかった。
「貴殿は先ほど、『子爵風情が』と口にしたな。それは家格を前提とした威圧ではないのか。さらに平手を打った。それを指導と呼ぼうが、有形力の行使である客観的事実は変わらない」
ぴしゃりと断じられ、伯爵子息は言葉を失う。
ライオネルはその横で、押さえつけたまま鼻で笑った。
「もう十分だろ。現行犯、証人、被害者、周囲の目撃者。これだけ揃ってりゃ、訴追官殿の好物としては上等すぎる」
その一言で、ようやく食堂中の人間が、この件がその場の揉め事では終わらないのだと理解した。これは生徒会預かりの案件になる。学則違反として整理され、起訴され、法廷へ持ち込まれる。
レティシアの胸がどくんと跳ねる。
『やっぱり……! 裁判イベント……!』
頰はまだ痛い。石床に打った肩もじんとする。怖かったのも本当だ。だが、それでも彼女は、この展開をどこかで「物語が正しい軌道へ戻った」と理解していた。グラクトが裁く。きっとそこで、彼はヒロインである自分を助けてくれる。そう思い込まずにはいられない。
しかしその間にも、現実は冷徹に進む。
食堂の入口から、風紀官の腕章をつけた上級生たちが数名駆け込んできた。ライオネルは彼らに顎で指示を飛ばす。
「被疑者を引き取れ。逃がすな。目撃者の席も確保しろ。食堂にいた連中の名前、卓の位置、発言内容まで拾えるだけ拾え。後で『覚えていない』は通さねえ。被害者は医務室へ。頰の腫れ、転倒時の打撲、全部記録させろ。殴打の痕が消える前に証拠化する。あと、こいつの座ってた席もそのまま残せ。食器の位置から椅子の倒れ方まで、後で見返せるようにな」
それはまさに、法廷闘争から逆算した完璧な現場保存だった。
誰がどこで見ていたか。どの発言があったか。被害者がどう倒れたか。暴力だけでなく、その前提となる威圧と言葉の流れまで含め、徹底して記録の対象にしていく。
伯爵子息は顔を歪め、なおももがこうとする。
「こんなもの、和解で済む話だろう! たかが子爵令嬢一人、家格を考えれば――――」
ライオネルの目が細くなった。
「今、もう一回言ってみろ。『家格を考えれば』何だ?」
ぞくりとするほど冷えた声だった。
伯爵子息は息を呑んだ。ようやく、自分が取り返しのつかない場所まで来ていると気づき始めている。だが、遅い。
レオンハルトは床に膝をつき、レティシアへ手を差し出した。
「立てるか」
その声音は先ほどまでの法的確認とは違い、静かな配慮があった。
レティシアはその手を見つめる。脳内では、またしても別の意味づけが始まっていた。
『レオンハルト……やっぱり騎士ポジション……! しかもここで助け起こしてくれるの、完全にサブ攻略対象の好感度分岐……!』
痛みで涙の跡が残る顔のまま、それでも彼女は胸を高鳴らせた。現実の残酷さと、ゲーム脳による解釈が、彼女の中でなおも強固に両立してしまっている。
「……はい」
差し出された手を取る。
レオンハルトは余計なことを何も言わず、彼女を静かに立たせた。だがその視線はあくまで被害の確認へ向いており、甘い慰めも特別扱いもない。そこにあるのは、風紀官としての実務と、将来軍を率いる者としての責任感だけだった。
レティシアは一瞬だけ、その温度差に小さく戸惑った。だがすぐに都合よく解釈し直す。
『うん……レオンはこういう真面目系なんだよね。ライオネルは荒っぽくて、レオンは正統派。で、この後グラクト様が裁判で決める……完璧な三段構えじゃない……!』
そんな彼女の狂った内心など知らぬまま、ライオネルは風紀官たちへ最後の指示を下した。
「学則第四条違反ならびに、構成要件を満たした明白な有形力の行使。現行犯、正当理由なし、証拠十分。――――これより被疑者を、訴追官の元へ連行する」
その宣言は、食堂という私的空間を、一瞬で「法の入口」へと変えた。上位貴族たちの顔から余裕が消え、下位の者たちの瞳には震え混じりの光が灯る。
レティシアだけが、その中心で、まだ半分は夢の中にいた。
頰は痛む。怖かった。けれど同時に、これはグラクトが自分のために立つ物語の始まりなのだと、本気で信じている。
『次は……裁判。グラクト様の見せ場だわ』
そうして、彼女の軽率さから生じた一件は、ただの食堂の暴力沙汰では終わらず、王立学園における最初の本格的な「成文法と身分の衝突」として、正式に記録されることとなった。
そしてその分厚い記録の束は、間もなく、あの深紅の瞳を持つ訴追官の机上へと運ばれる。