リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第3話『最初の裁き1』

1 裁判前夜の訴訟指揮

 

 学園裁判の開廷を翌日に控えた夜。

 第一王子グラクトに与えられた私室は、ひどく静まり返っていた。

 

 窓の外では春先の風が若木を揺らしている。だが、その柔らかな気配とは裏腹に、部屋の中に満ちているのは、張りつめた緊張と紙の匂い、そして蠟燭の熱に炙られた羊皮紙の乾いた匂いだけだった。

 

 机の上には、整然と積み上げられた書類の束。

 起訴状の写し、学則基本法の該当条文、風紀官からの現場報告、証人調書、裁判進行の覚書――――それらすべてに、何度も読み返された痕跡がある。

 

 グラクトはその中心に座り、じっと一枚の紙面を見下ろしていた。豪奢な第一王子の私室であるにもかかわらず、今この部屋にあるのは王族の享楽ではない。あるのは、明日、自らが初めて公の場で「法に基づいて他者を裁く」という重責だけだった。

 

 その静寂を破ったのは、扉を叩く端正な音だった。

 

「……入れ」

 短い応答ののち、扉が開く。

 姿を現したのは、プラチナブロンドの髪を乱れなく整えた少年――――エドワルド・シーン・カルネリアである。

 彼は入室すると、まず隙のない一礼を捧げた。

 

「夜分に失礼いたします、殿下。明日の開廷に先立ち、最終確認に参りました。まず進行ですが、開廷宣言の後、訴追官による冒頭陳述。次いで被告人の人定質問と罪状認否。その後、証拠調べ――――被害者本人の供述、現認した風紀官の証言、必要に応じて補助資料の提示。そこから弁舌士による反対尋問、法的主張の整理、最終弁論を経て、最後に殿下が判決を言い渡されます。形式は、あくまで『学則に基づく公正な裁き』で統一いたします。重要なのは、感情ではなく手続に則って進んでいるように見せることです。たとえ結論がすでに見えていようとも、手順が整っていなければ、それは裁きではなく私刑と受け取られます」

 

「ああ。ちょうど、お前を呼ぶべきか考えていたところだ。……そこまでは分かっている」

 グラクトの声音は落ち着いていた。

 

 だが、その落ち着きはかつてのような、何も考えず周囲に支えられる神輿の静けさではない。むしろ、考え抜いた者だけが持つ、重く沈んだ静けさだった。

 

 エドワルドはそれを敏感に察しながらも、表情には出さなかった。彼は机の前へ進み出ると、あらかじめ用意していた進行表を滑らせるように差し出し、そのまま次の論点へ入る。

 

「特に明日は、全校生徒が見守る最初の裁判です。ここで示すべきは、殿下が激情で人を断ずる方ではなく、規則と秩序に基づいて学園を導く裁定者である、という一点に尽きます。そのうえで申し上げますが、被告人はただの無法者ではありません。貴族院において一定の発言力を持つ伯爵家の子息であり、その背後には中位貴族層の空気がございます。ここで彼を真正面から重く断罪すれば、学園の秩序は一時的に保てても、別の火種を無用に育てることになる」

 

 グラクトは無言のまま、ようやく視線を上げた。

 金色の瞳が、蠟燭の火を映してわずかに揺れる。

 

 エドワルドは、その目を正面から受け止めながら言葉を継いだ。

「もちろん、表向きには学則が優先されるべきです。ですが法とは、条文だけで完結するものではありません。秩序の維持という大目的のために、どこまで厳格に適用し、どこで現実との均衡を取るか――――そこに裁定者の知恵が問われます。本件で争点となるのは、単なる暴力の有無だけではございません。学則基本法総論には、『正当な権限または身分に基づく行為は罰しない』という条項がある。ならば、上位者が下位者の無礼や逸脱を矯正しようとした行為に、一定の正当性を認める余地はある。ここで必要なのは、殿下の威光を損なわず、なおかつ学園全体に『秩序は保たれている』と示すことです。被告人の行為を全面的に称揚する必要はありません。学則違反の疑いは認めつつも、正当行為の解釈を広く取り、訓戒あるいは軽微な処分に留める。それが最も穏当で、最も賢明な着地にございます」

 それは明白な誘導だった。

 

 事実認定を争うのではなく、違法性の段階で逃がす。構成要件には触れても、最終的には「正当行為」として違法性を阻却してしまう。そうすれば法の体裁を保ったまま、政治的波風だけを抑えられる。

 

 政治的には、極めて正しい。

 暖炉の火が小さくはぜる音だけが、やけに大きく響いた。

 

 グラクトはしばらく何も言わなかった。机の上の書類に視線を戻し、その中の一冊――――何度も読み込まれ、端が擦り切れ始めた写本へと指先を置く。

 

 それは『王国史』。

 王家の品位と裁きの歴史を、事実と判例の形で抜き出した、あの異様に冷徹な書であった。恣意的な恩赦。身分への配慮を優先した結果、反乱の火種を残した判決。逆に、あまりに感情的な処罰が、王権そのものへの不信を招いた例。グラクトは、ここ数週間、それを何度も何度も読んでいた。

 

 自分のために用意された盤面であることを理解しながら、それでも、そこに並ぶ「事実」からは目を逸らせなかった。王が恣意に逃げた時、法は死ぬ。法が死んだ時、残るのは人の顔色だけだ。そして、人の顔色で守られた秩序は、結局、最も声の大きい者の暴力へと還る。

 そのことを、彼はようやく、自分の頭で理解し始めていた。

 

「……エドワルド。お前の言いたいことは分かる。明日の裁判は、ただ一人の伯爵子息を裁く場ではない。……そのことも、お前は分かっているのだろう」

 

「無論にございます。だからこそ、です。最初の判例は重い。だからこそ、学則が中位貴族層に対する露骨な敵意ではないと示す必要があるのです。ここで最初から極端に振れれば、法そのものが『特権を奪うための刃』と見なされ、以後の運用はいたずらに困難になります」

 あくまで理に適っている。

 

 あまりに理に適っているからこそ、グラクトはすぐには否定できなかった。

 自分は、まだ王ではない。学園という箱庭の裁判長にすぎない。だが、それでも明日の判決は、ここで暮らすすべての生徒に「これから何が正しいとされるのか」を示すことになる。

 そこから逃げてはならない。

 

 だが、同時に、軽々しく振り下ろしてよいものでもない。

 その重みを、彼は今、たしかに感じていた。

 

「……手順は分かった。明日は予定通り進める。冒頭陳述、証拠調べ、弁論、判決。形式は崩さない。その上で、何をどう解釈するかは……法廷で決める」

 エドワルドは一瞬だけ目を細めた。

 

 それは失望でも反発でもなく、主君がなお結論を口にしないことへの静かな観察だった。

 

「承知いたしました。では私は、弁舌士として、彼の行為が罰を免れる『正当な例外』に当たるという筋道を整えておきます」

 争点を構成要件ではなく、違法性阻却事由の有無に絞り込むという、第一王子側近としての極めて正確な実務宣言であった。

 

「殿下も、どうか今夜は少しでもお休みください。明日は、学園中の目が貴方お一人に注がれます」

 丁寧に一礼し、エドワルドは退室する。

 扉が閉まる音が、やけに重く響いた。

 再び一人になった部屋で、グラクトはしばらく微動だにしなかった。

 

 政治的には、エドワルドが正しい。秩序を維持するだけなら、曖昧な着地はいくらでも可能だ。上位者の躾と称し、学則に柔らかな違法性阻却事由を与えれば、中位貴族層の反発は最小限に抑えられる。

 

 だが、それでいいのか。

 それでは結局、「法はあるが、最後は身分が勝つ」という、この国そのものを学園の中に再生産するだけではないのか。

 グラクトは机の上の写本を開く。

 

 そこに書かれているのは、飾り立てられた正史ではない。判決と、その後に生じた帰結だけが冷たく並べられた記録だ。誰を庇い、誰を切り捨てたか。その時、秩序はどう揺れたか。為政者が何から逃げ、何を直視しなかったか。

 

 ページをめくる指先に、力が入る。

「……恣意に逃げれば、また同じか」

 それは誰に向けた言葉でもなかった。

 ルナリアの死。セオリスの断末魔。

 

 そして、何も知らぬまま、ただ周囲の作った盤面の上で「許可する」と頷くだけだった、かつての自分。あの時、自分は判断していなかった。責任だけを持つ顔をして、実際には何一つ見ていなかった。

 

 だからこそ、今度こそ。

 たとえ未熟でも、自分で読んだ事実から逃げず、自分で解釈し、自分で言葉にしなければならない。

 

 グラクトはゆっくりと息を吐き、目を閉じた。

 明日、自分は何を裁くのか。伯爵子息の一発の平手打ちか。それとも、その背後にある「身分なら許される」という、この国の空気そのものか。

 

 答えは、まだ声にはならない。

 だが、迷いの中にこそ、確かにひとつの覚悟が芽生え始めていた。

 蠟燭の火が、静かに揺れる。

 裁判前夜の王子の部屋で、王にも神輿にもなりきれぬ一人の少年が、初めて自分の意志で「裁く者」になろうとしていた。

 

 

 

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