リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 証拠調べと、事実の固定
グラクトの開廷宣言と罪状認否を終えた法廷には、すでに張り詰めた緊張が満ちていた。被告人はなおも鼻先で笑い、傍聴席の上位貴族たちの一部もまた「どうせ最後は身分相応のところへ落ち着く」とでも言いたげな、甘い期待を捨てていない。
だが、その空気を一歩ずつ切り崩していくように、リュートは静かに立ち上がった。
「訴追側は、被害者本人への尋問を請求します」
グラクトが短く頷く。
風紀官に促され、証言台へ歩み出たのはレティシアだった。
昨日までなら、王子と視線が合うだけで舞い上がっていたはずの彼女も、全校生徒の視線が自分一人へ突き刺さるこの場では、さすがに頰の血の気を失っている。しかも正面には裁判長たるグラクト、左には赤い目で淡々と書面を操るリュート、右には氷のようなエドワルド。
『え、なにこの空気……! イベントの選択肢間違えたら即ゲームオーバーになりそうなくらい怖いんだけど……!』
これがイベントだと浮かれて受け止め切れるほど、現実の法廷の空気は優しくはなかった。
リュートの声は冷たく平板で、そこに慰めや配慮の色はない。
「証人。氏名、家名、学年を述べてください」
レティシアは一瞬、場違いな愛想笑いを浮かべかけ――――だがその瞬間、リュートの目がまっすぐに自分を捉えていることに気づき、慌てて姿勢を正した。
「……レティシア・ラナ・ハーテス、一年です」
「よろしい。では質問します。昨日、食堂において、被告人から接触を受けたのは事実ですね」
「は、はい……」
「その際、被告人はあなたに対し、自らの身分を示しながら発言しましたか」
レティシアは一瞬きょとんとした。
脳裏では「悪役令嬢に嫌味を言われ、モブ貴族に絡まれるイベント」程度の分類しかなされていない。だが、ここで求められているのはそんな物語的整理ではないのだと、かろうじて察する。
「えっと……その、はい。『子爵風情が』って……言われ、ました」
「確認します。被告人は、あなたを対等な一生徒としてではなく、『子爵風情』という家格を理由に見下し、上下関係を前提に威圧した。そう理解してよろしいですね」
問いの形は丁寧だが、逃げ道はない。
レティシアの曖昧な主観や、恋愛ゲームのような脳内注釈は、その瞬間ごと法的な言語へ翻訳されていく。
「……は、はい」
傍聴席が再びざわついた。
ただ嫌な言い方をされたではない。今のやり取りによって、被告人の発言は暴行の前提となる「身分の誇示」という要件に位置づけられたのだと、多くの者が本能的に理解したからである。
リュートはためらわず続けた。
「次に確認します。あなたはその接触を望んでいましたか」
レティシアはそこで、少しだけ迷った。
本当のことを言えば、彼女はあの時、食堂で伯爵子息に絡まれた瞬間ですら、どこかでこれもイベント分岐かもしれないと甘く考えていた。完全な拒絶一色だったかと言われれば、そうとも言い切れない曖昧さがある。
しかし、その迷いを見抜いたように、リュートの問いが重ねられる。
「あなたは、相手からの接近に対し、不快と恐怖を覚え、その場を離れようとしましたね」
まるで、彼女の中で混線していた感情を、法廷用に切り分けて整えてやるかのような冷徹な誘導だった。レティシアは小さく息を呑み、それから頷いた。
「……はい。怖くて、逃げたかったです」
「にもかかわらず、被告人はその場でなお接近を続けた。違いますか」
「違いません……」
「さらに、被告人はあなたの頰に有形力を加えましたね」
「……はい」
講堂の空気がまた一段、冷えた。
発言の機会は厳しく制限され、ただ事実のピースだけが盤上に置かれていく。リュートは一切声を荒げない。だが、その静かな確認作業の積み重ねによって、なんとなく嫌な出来事は、明確な構成要件該当事実へと固定されていく。
「その一撃によって、あなたは床に倒れましたか」
「はい」
「痛みはありましたか」
そこまで問われて、レティシアはようやく昨日の鈍い痛みを思い出したように、そっと自分の頰へ触れた。
「……ありました」
「恐怖により、自由に動き、自由に反論し、自由にその場を去る状態ではなくなった。そうですね」
もうイベントではない。
レティシア自身も薄々分かり始めていた。自分がここで語らされているのは、物語上の被害者役ではなく、一人の権利侵害の当事者としての事実なのだと。
「……そう、です」
リュートはそこで書面を閉じた。
「以上で被害者本人への主尋問を終わります」
簡潔だった。
だが、その簡潔さゆえに重い。彼女の場違いな感情や空想をすべて削ぎ落とし、身分の誇示、拒絶の継続、有形力の行使、恐怖と身体侵害という客観的事実だけを、完璧に法廷へ提出し終えたからである。
グラクトは静かに視線をエドワルドへ向けた。
「弁舌士、反対尋問は」
「……いえ、現時点ではございません」
エドワルドはそう答えた。
ここで被害者本人の認識の曖昧さを突くこともできなくはない。だが、レティシアの証言はすでにリュートの手で客観化されている。無理にここで突けば、かえって被害者を追い詰める上位者という印象だけを強める危険があった。
ならば争うべきは、事実そのものではない。
次の証人。そこが勝負であった。
「訴追側、次の証人を」
「風紀官ライオネルの証言を請求します」
講堂の空気がわずかにどよめいた。
南のヴィレノール公爵家次期当主にして、学園中にその凶暴さと武力を知られた男である。彼が証言台へ向かうだけで、場に流れる圧は一変した。
ライオネルは気負いもなく立ち、証言台に片手を置いた。獲物を前にした獣のような目が、被告人を真っすぐに射抜く。昨日この男の腕を捻り上げ、床に叩き伏せた時とまったく同じ目だった。
「氏名と立場を」
「ライオネル・ゼオン・ヴィレノール。風紀官副責任者」
「昨日、食堂における現場へ駆けつけましたね」
「ああ」
「その際、被告人が被害者に対してどのような状態にあったか、事実のみを述べてください」
ライオネルは鼻で笑うように息を吐いた。
「簡単だ。こいつは令嬢を見下ろして怒鳴り散らし、そのあと本気で頰を張り飛ばしてた。俺が見た時点で、令嬢は床に倒れ、周囲も凍りついていた。明確な暴力行為だ」
その証言は極めて強かった。
単なるそう見えたではない。南の公爵家嫡男という、絶対に平民側へ媚びる必要のない上位者が、自らの目で見た事実として断定したのである。
リュートは淡々と確認を重ねる。
「有形力の行使があった、と断言しますか」
「する」
「被害者は、その時点で自由かつ対等な状態にありましたか」
「あるわけねえだろ。完全に怯えてた」
「被告人は学則第四条に違反していた、と」
「現行犯だ」
短く、鋭い。
ライオネルの証言は、余計な感情を交えない分だけかえって重かった。
「以上です」
リュートが引く。
構成要件は完全に立証された。法廷の空気はほとんど訴追側へ傾いたように見えた。身分を笠に着た暴力、被害者の恐怖、風紀官による現認。事実関係だけ見れば、もはや逃げ場などない。
――――そこで、エドワルドが立ち上がった。
彼の動作は、どこまでも静かで無駄がない。騒然としかけた傍聴席が、逆にその静けさによって鎮まる。
「反対尋問を」
グラクトが許可すると、エドワルドは証言台のライオネルを正面から見据えた。
「風紀官殿。確認します。貴方は昨日、被告人を制止する際、その腕を強く捻り上げ、床へ押さえつけましたね」
「ああ。抵抗したからな」
「つまり貴方自身も、他者の身体に対して有形力を行使した」
「そうだな」
その瞬間、一部の上位貴族がはっと顔を上げた。
何を狙っているのかが見えたからである。
エドワルドの声はなおも穏やかだった。
「では問います。なぜ貴方のそれは許されるのですか」
ライオネルの目が細まる。
「……風紀官の任務だからだ」
「その通り。貴方は『風紀官』という学園内の正当な権限を背景として有形力を行使した。ゆえに、それは罪に問われない」
正当行為による違法性阻却の提示である。エドワルドはそこで、わずかに声を低くした。
「では、上位貴族が下位の者を矯正し、秩序を維持しようとする行為はどうでしょうか。貴族社会において、上位者が下位者の無礼を正すことは、古くから認められてきた役割です。すなわち、これもまた『身分に基づく正当な行為』と考えうるのではありませんか」
ざわ、と空気が変わる。
ここに来て初めて、論点が「殴ったかどうか」から、「殴ったとして、それは法的に罰せられるべき違法な行為か」へと移されたのだ。
ライオネルは露骨に顔をしかめた。
「……ふざけた理屈だな」
「理屈を問うているのです、風紀官殿」
エドワルドは一歩も引かない。
事実を争わず、違法性阻却の土俵へ戦場を移す。実務家として極めて正確な反撃だった。
観覧席の上位貴族たちの顔に、にわかに光が戻り始める。そうだ。もし正当な権限が暴力を許すのなら、身分もまた秩序維持の権限たりうるのではないか。その問いは、彼らが当然のものとして信じてきた日常そのものに接続していた。
対して平民や下位貴族の席には、再び不安が広がる。せっかく事実が積み上がったのに、結局最後は上位者だから許されるで覆されるのではないかと。
リュートは黙ってその揺れを観察していた。
いい。これでいい。事実だけで勝てる裁判なら、この国の病理は炙り出せない。問題は常に、その次――――人間がどのような理屈で『自身を正当化』しようとするかにある。
グラクトは正面でその応酬を聞きながら、机上の記録へ静かに目を落としていた。
有形力の行使は争われていない。争点は明確に、正当な権限または身分に基づく行為がどこまで違法性を阻却しうるかへ移った。
法廷は今、最初の核心へ足を踏み入れたのだ。
エドワルドは最後に、証言台へ向けて一礼にも似た角度で顎を引いた。
「以上です」
反対尋問が終わる。
だが、その余波は大きかった。
訴追側は事実を固定した。
弁護側は、その固定された事実を正面から否定せず、「許される暴力」と「許されない暴力」の境界へ論点をずらした。
この裁判は、もはや単純な暴行事件ではない。
身分そのものが、法の下でいかなる位置を占めるのか。
その問いが、大講堂いっぱいの沈黙の中で、誰の胸にも逃れようなく落ちていた。