リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 違法性阻却の攻防
ライオネルへの反対尋問が終わった瞬間、法廷の空気は目に見えて変質していた。
先ほどまでの流れだけを見れば、勝負はほとんど決していたはずだった。被告人は身分を誇示し、被害者を威圧し、実際に有形力を加えた。被害者本人の供述、風紀官による現認、そのいずれもが嚙み合っている。暴行の構成要件該当事実は、すでに逃げ場なく固定されたと言ってよかった。
だがエドワルドは、そこから一歩も引かなかった。
事実を争えないのなら、事実の法的な意味を争う。行為が存在しても、直ちに違法とは限らない。その極めて実務的で、そしてこの国の旧秩序に深く根差した反撃の刃が、今まさに法廷の中央へ突き立てられようとしていた。
エドワルドが一歩進み出る。
「裁判長。弁護側は、被告人による暴力行為そのものは争いません。本件において争うべきは、事実の有無ではなく、その行為が法的に罰せられるべきか否かです。すなわち――――本件の行為が、学則基本法総論第七条の定める『正当な権限または身分に基づく行為』として、例外的に許容されるか否か。この一点にございます」
傍聴席がどよめいた。
被告人席の伯爵子息すら、一瞬だけ目を剝いた。まさか自分を弁護するはずの男が、暴力の事実をあっさりと認めてしまうとは思っていなかったのだろう。
エドワルドは、構成要件の該当を完全に明け渡すことで、戦場を『違法性阻却事由の有無』へと引きずり込んだのである。
その声音に、一切の揺らぎはない。
「学園は、王立学園です。ここは市井の雑多な寄せ集めではなく、将来王国を担うべき者たちが、身分と責務を学ぶ場でもある。ゆえに学則は、単に暴力一般を機械的に排斥するためだけに存在するものではございません。秩序を維持し、上下の別をわきまえさせ、学び舎全体の品位を守るためにこそ存在するのです」
被告人席の伯爵子息が、ようやく「そうだ」とでも言いたげに顔を上げる。
だがエドワルドは、彼のような愚物を庇うために語っているのではない。もっと大きなもの――――この国の社会通念そのものを法廷へ持ち込むために語っていた。
「先ほど、風紀官ライオネル殿に対する反対尋問でも確認した通り、暴力そのものが一律に罪とされるわけではありません。
風紀官が学園秩序維持の任務に基づき違反者を制圧するように、一定の立場と責務に基づく実力行使は、学則上、明確に許容されうるのです。
そして、この王国において上位者が下位者の無礼を正し、身の程を教えることは、単なる私情ではなく、古くから秩序維持のために認められてきた社会的役割です。
ゆえに、被告人の行為は粗暴ではあっても、その性質上は『身分に基づく矯正』として理解されるべきであり、総論第七条の例外規定に当てはまると解するのが、学則体系全体との整合性において最も妥当でございます」
講堂のあちこちで、安堵とも熱気ともつかぬ吐息が漏れた。
上位貴族たちにとって、それは救済の論理だった。
つまりこうだ。たしかに殴った。だが、殴ったこと自体が問題なのではない。誰が、どの立場から、何のために行ったかが問題なのであり、上位者が下位者の無礼を矯正するためであれば、それは違法性を帯びない『正当行為』たりうる。そう位置づけられれば、彼らの日常は何一つ否定されずに済む。
エドワルドは、冷ややかなほど整った声でなおも続ける。
「被害者は、子爵家令嬢という立場にありながら、第一王子殿下のお近くへあまりにも軽率に接近し、周囲に無用な混乱をもたらしました。
そこに対し、被告人が上位者として秩序の回復を図ろうとした。その手段が過剰であったか否かは別論ですが、少なくともその行為の出発点は、学園秩序に対する関心と、身分秩序の維持という社会的役割に基づくものでございます。
よって弁護側は、本件について、事実関係は認めつつも、罪には問われないと主張いたします。学則第四条の存在をもって、王国における伝統的な上下関係の規律作用まで否定することはできません。
むしろ総論第七条が存在する以上、学則はそうした社会的現実を織り込んだ上で構築されていると解するべきであり、本件被告人を有罪とすることは、学則体系の趣旨を逸脱する不当な拡張解釈にほかなりません」
言い切ったその声は、驚くほど静かだった。
だが、その静けさゆえに恐ろしいほど強い説得力を持っていた。
上位者による暴力を「秩序維持」と再定義し、身分そのものを「社会的役割」と言い換え、違法性阻却の器の中へ完璧に収めてみせる。それは明らかに旧秩序を守るための理屈だったが、同時に条文の文言へ一定の筋道をつける、高度に洗練された法解釈でもあった。
リュートは席に座ったまま、その主張を一言一句逃さず聞いていた。
内心では、むしろ静かな感心すら浮かべている。
『――――見事だ、エドワルド。事実認定で負けるなら、違法性へ論点を移す。しかも単なる感情論ではなく、総論第七条の文言と、この国の社会通念を正面から接続してきたか』
雑な相手なら、「貴族は偉いから許される」と喚くだけで終わる。
だが目の前の知将は違う。彼はあくまで法的手続きの形式を守りながら、旧世界の論理を法解釈として再構成してみせた。
だからこそ、この最初の裁判は重いのだ。ただ論破するだけでは足りない。この論理を正面から叩き切らなければ、法治の箱庭は最初の一歩で死文化する。
グラクトは黙っていた。
その沈黙は長く、法廷の誰もが彼の次の言葉を待っていた。だが、今はまだ裁判長の判断を下す段階ではない。
「訴追官、反論は」
グラクトの問いに、リュートはゆっくりと立ち上がった。
「ございます」
深紅の瞳が法廷を一周する。その視線は、上位貴族の安堵も、平民席の不安も、被告人の下卑た得意顔も、すべて見透かしているようだった。
「弁護側の主張は、一見すると学則総論第七条の文言に忠実であるように見えます。
しかし、その解釈を無制限に認めれば、学則第四条は実質的に上位者に対して適用不能となり、条文は最初から存在しないのと同義になります。訴追側は、総論第七条の存在を否定しません。
風紀官による制圧、教員による安全確保、あるいは学園の正式な役務に基づく有形力の行使が、例外として許容されうることは認めます。問題は、その『身分』の意味です」
彼はそこで書面を掲げた。
「学則は学園内の秩序を明文化したルールです。そこにおいて『身分』とは、学園内における役務上・制度上の地位を意味するのであって、生得的な家格そのものを無制限に免罪符とする趣旨ではありません。
もし爵位それ自体を根拠に他者への暴力を正当化できるのなら、上位者は下位者に何をしてもよいことになる。それでは第四条の暴力禁止規定は、下位者にだけ適用される飾り文句へ堕します。さらに申し上げます。弁護側は、被告人が『秩序の回復を図った』と述べました。
しかし本件において、被告人は学園の正式な秩序維持者ではありません。風紀官でもなく、生徒会役員でもなく、教員でもない。ただの一生徒です。正式な権限も役務も持たぬ者が、己の家格のみを根拠に他者へ制裁を加えることは、秩序維持ではなく、まさに学則が禁止する私的な暴力そのものです。
よって訴追側は、被告人の行為に総論第七条の例外は成立しないと主張します。本件は、たかが一生徒が身分を誇示して行った私的制裁に過ぎず、学則第四条が最も明確に禁止しようとした行為類型そのものでございます」
上位貴族の席に苛立ったざわめきが走る。
だがリュートは一切ひるまない。
総論第七条は認める。だが、違法性阻却の適用範囲をあくまで「学園内の制度上の役務」に限定する。生得的な爵位を根拠にした私的暴力まで含めれば、法の平等性は崩壊する。
それは極めて単純で、だからこそ逃げ道のない強固な法理だった。
もっとも、それで直ちに勝負がついたわけではない。
今の応酬によって、法廷ははっきり二つの価値へ割れたのだ。
旧秩序において当然とされてきた、身分による私的制裁。
新秩序において守られるべき、文字としての法の平等。
どちらが優先されるのか。どちらの違法性を阻却するのか。
それはもはや単なる条文解釈ではない。
この学園が、そして将来この国が、何を秩序の中核に置くのかという宣言に等しかった。
グラクトは静かに木槌へ指を置いた。
その顔には、先ほどまでの儀式的な威厳だけではない、重い思考の影が落ちている。
「双方の主張、確かに聞き届けた。本件は、学則第四条と基本法総論第七条の関係解釈に関わる重大案件である。ゆえに本法廷は、ここで一度休廷し、合議に入る」
木槌が打ち下ろされた。
乾いた音が、最初の裁判の最初の核心が、いま密室へ持ち込まれることを告げる。
ざわめきが再び講堂に満ちる中、リュートは静かに書面を閉じた。
エドワルドもまた無言で一礼し、席へ戻る。
法廷での勝敗は、まだ決していない。
だが、この瞬間ではっきりしたことが一つある。
この裁判は、単なる暴行事件の裁きではない。
身分は学則の上に立つのか、それとも学則の内に押し込められるのか。
その最初の判定が、いま密室の合議室で下されようとしていた。