リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第3話『最初の裁き5』

5 密室の合議と、遅すぎた理解

 

 休廷を告げる木槌の音が大講堂に響いた直後、裁判長、訴追官、弁舌士の三名だけが、法廷裏に設けられた小さな合議室へと移った。

 

 重い扉が閉まると同時に、傍聴席のざわめきも、上位貴族たちの苛立った視線も、平民たちの張り詰めた息遣いも、すべてが厚い壁の向こうへ遮断される。

 

 室内に置かれているのは、簡素な机と椅子だけだった。

 

 だが、そこに満ちる空気は法廷以上に重い。

 

 最初に口を開いたのは、やはりエドワルドだった。

 

「殿下。ここでのご判断は、単なる一件の暴行事件にとどまりません。被告人は伯爵家の子息です。議長派に連なる中位貴族の家々にとって、今回の裁判は『学則が自分たちの慣習的権限に介入してくるか否か』を見極める試金石となっております。

 

 ここで有罪の前例を作れば、彼らは間違いなく反発する。今後の学則運用全体に深刻な軋みを残しかねません。ゆえに本件は、総論第七条を広く解釈し、『上位者による秩序維持の行為』として例外的に許容すべきです。少なくとも、退路を断つような断定は避けるべきかと」

 

 その言葉は、決して感情論ではなかった。

 

 損得勘定として、政治的合理性として、極めて正しい。

 

 ここで身分秩序に配慮する判決を下せば、議長派を敵に回さずに済む。上位貴族たちの不満も抑えられる。何より、今後の制度運用を続ける上で無用な摩擦を避けられる。

 

 リュートは、黙ってその言葉を聞いていた。

 

『――――そうだ。君ならそう言うだろう、エドワルド』

 

 この知将は、旧秩序の枠内にいる限り、恐ろしく有能だ。彼は決して愚かではない。法の必要性も、学則の有用性も理解している。だが、その法が既存の身分秩序そのものを切り裂く刃となることまでは、許容できないだけだ。

 

 そして、兄もまた、ここで身分の論理へ流れる。

 

 リュートは、そう予測していた。

 

 法廷では厳粛な顔を作れても、密室で現実を突きつけられれば、特権階級の反発を恐れて政治的配慮に落ちる。今までのグラクトであれば、それが自然だった。王の威光を守ることと、今ある秩序を壊さないこと。その二つを両立させようとして、中途半端な裁定へ逃げるはずだった。

 

 だが。

 

「……違う」

 

 低く、しかし迷いのない声が落ちた。

 

 リュートは一瞬、思考を止めた。

 

 エドワルドもまた、まばたきを忘れたようにグラクトを見る。

 

 グラクトは机上に置かれた訴状と学則草案を見下ろしながら、ゆっくりと顔を上げた。その金色の瞳には、休廷前までの揺れが不思議なほど薄れていた。

 

「総論第七条の『正当な権限または身分に基づく行為』とは、学園の制度運営に必要な役務上の権限を指すものだ。

風紀官や教員のように、学園秩序を維持する責務を明確に負った者の行為を予定している。生まれの爵位そのものを根拠に、他者へ私的制裁を加えることまでそこへ含めれば、学則第四条は最初から意味を失う。

上位者だけが例外となるなら、法は法ではない。ただの飾りだ」

 

 それは、先ほど法廷でリュート自身が提示した解釈そのものだった。

 

 エドワルドの表情が、ごくわずかに強張った。

 

「ですが殿下、それでは中位貴族たちが――――」

 

「反発するだろうな」

 

 グラクトは遮った。

 

 だがその声音には、驚くほど静かな確信が宿っていた。

 

「だが、それでも彼の行いは正当化されない。被告人は学園の正式な秩序維持者ではない。

ただの一生徒だ。しかも己の家格を笠に着て、相手の拒絶を無視し、有形力を加えた。これを秩序維持と呼ぶなら、法は最初から強い者のための免罪符にしかならない」

 

『――――兄上が……自らの意志で、学則を選んだ?』

 

 リュートの胸の奥で、何かが不快なほど鋭く軋んだ。

 勝利の予感ではない。むしろその逆だった。

 

 彼はずっと、兄を軽蔑してきた。血統に守られ、周囲に持ち上げられ、都合が悪くなれば事実から目を逸らして流されるだけの、空虚な王子。今回も、エドワルドが用意した政治的な逃げ道に飛びつき、特権階級の反発を恐れて身分の論理を選ぶはずだと、そう高を括っていた。

 

 だが、目の前の男は違う。

 

 リュートが提示した『学則』の意味を正しく理解し、中位貴族を敵に回すリスクを承知の上で、身分ではなく法を適用するという積極的な選択を自ら下したのだ。

 

「エドワルド。お前の懸念は分かる。だが、ここで私が『上位者だから許される』という解釈へ逃げれば、この裁判所は最初の一件で死ぬ。

今後、誰がどれだけ証拠を揃えようと、結局は身分が上なら免れるという前例だけが残る。私は、それを認めるためにこの席へ座ったのではない」

 

 エドワルドは沈黙した。

 

 彼の理性は、主君の言葉の危険性と同時に、その論理的な整合性もまた正確に理解していた。ここで反論を重ねれば重ねるほど、逆に自分が法を骨抜きにしたい側へ見えてしまう。

 

そして何より――――グラクトが今口にしているのは、感情論ではなかった。学則第四条を空文化させないためには、総論第七条の適用範囲を役務上の権限へ限定せねばならない。法体系全体の整合性から逆算された、真正面の結論だった。

 

「……承知、いたしました」

 

 やがてエドワルドは、深く頭を垂れた。

 

「殿下がその解釈を採られるのであれば、弁舌士としての役目はここまでにございます。以後は、その判決がもたらす政治的波紋を最小限に抑えるため、全力を尽くします」

 

 それは服従だった。

 

 だが、盲従ではない。主君の決断を受け入れた実務家として、その後始末を引き受けるという、有能な官僚としての敗北の受容だった。

 

 グラクトは小さく頷いた。

 リュートは、なおも黙っていた。

 合議室の空気は、静かだった。

 

 だが、たった今ここで、何かが決定的に変わったことだけは、誰の目にも明らかだった。

 

 裁判長グラクトは、法と身分の衝突に対し、政治的損得ではなく学則の趣旨を優先するという選択を、自らの意志で摑み取った。

 

 それは、リュートにとっては可能性としては考慮はしても、極めて可能性の小さいものであった。

 ただ都合よく踊るだけの神輿だと思っていた男が、突きつけられた選択肢を前に、逃げずに泥を被る道を選んだ。

 

 その事実に対する、純粋な驚愕。

 

「……法廷へ戻りましょう」

 

 最初に立ち上がったのは、リュートだった。

 

 いつものように整った声で告げるが、その深紅の瞳の奥には、盤面の前提が覆されたことに対する、冷たい戦慄が沈んでいた。

 

 

 

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