リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第3話『最初の裁き6』

6 最初の判例

 

 休廷を終えた鐘の音が、重々しく特別法廷に響き渡った。

 

 ざわめいていた傍聴席が、波が引くように静まっていく。

 

 再び入廷した裁判長グラクトは、先ほどまでとはどこか違って見えた。金の髪も、まっすぐに伸びた背筋も、王族としての威光そのものは変わらない。だが、その瞳の奥には、他者の言葉をなぞるだけではない、自ら選び取った者だけが持つ冷たい覚悟が宿っていた。

 

 訴追官席のリュートは、その変化を誰よりも鋭く見抜いていた。

 

 弁舌士席のエドワルドもまた、無表情の奥で、主君が合議室にて最終的な判断を固めたことを理解している。

 

 被告人席の伯爵子息だけが、その空気の変化に気づけていなかった。

 

 いや、気づこうとしなかったのだろう。彼はまだ、自分が伯爵家の子息であるという一点だけで、最後の最後には守られるはずだと信じていた。

 

 グラクトが立つ。

 

「これより、判決を言い渡す」

 

 その声は、広い講堂の隅々までよく通った。

 

 一瞬の静寂。誰も息をしないかのような緊張が、その場の全員を包み込む。

 

「被告人、アルノルト・ベイル――――有罪」

 

 その二文字が落ちた瞬間、法廷の空気が凍りついた。

 

 上位貴族の生徒たちの顔が一斉に強張る。平民や下位貴族の生徒たちは、何が起きたのか理解しきれぬまま、ただ目を見開いて裁判長席を見上げていた。

 

 被告人の伯爵子息は、数秒遅れて言葉の意味を理解したらしい。

 

「……は?」

 

 間の抜けた声が漏れる。

 

 だがグラクトは動じない。木槌を一度、短く打ち鳴らし、法的な結論を述べた。

 

「本件において本法廷は、被告人が学則第四条に違反し、身分を笠に着た私的制裁として暴力を行使した事実を認定する。弁舌士は、学則基本法総論第七条に基づき、これが『身分に基づく正当な行い』であるとして違法性の阻却を主張した。しかし本法廷は、同条にいう『正当な権限または身分』とは、学園秩序を維持するため制度上付与された役務上の権限を意味するものであり、個人の生来の爵位を根拠とする私的制裁までは含まないと解する。もし、生来の身分そのものに私的制裁の権限が伴うと解するなら、学則第四条が禁じる暴力行為は、上位者に対しては常に違法性が阻却されることとなる。かかる解釈は、同条を死文化させ、学則自体の制度趣旨を失わせる。よって採用できない。学園において、身分秩序は成文法に優越しない。上位者であろうと、下位者であろうと、他者の自由と身体を不当に侵害した者は、等しく法の下で裁かれねばならない」

 

 その瞬間だった。

 

 下位の席のどこかで、誰かが小さく息を吞んだ。続いて、別の誰かが、震えるように手を打った。

 

 ぱち。

 

 本当に、かすかな音だった。

 だが、その一音はあまりにも重かった。

 

 平民の特待生たち。下級貴族の子弟たち。これまで身分を理由に退けられ、我慢を強いられ、泣き寝入りするしかなかった者たちにとって、それは初めて「学則が自分たちを守った」と明確に理解できる瞬間だったのだ。

 

 やがてその拍手は、広がる。遠慮がちに、だが確かに。熱狂ではない。歓声でもない。ただ、信じきれないものを見てしまった人間たちの、戸惑いと感激が入り混じった不揃いな拍手だった。

 

 上位貴族たちは、誰一人としてそれに加わらない。顔面を蒼白にし、ある者は怒りに唇を嚙み、ある者は理解不能なものを見るように法廷を睨みつけている。

 

 被告人の伯爵子息は、もはや立っていることすらできない顔をしていた。

 

「そ……そんな、馬鹿な……私は伯爵家だぞ……!」

 

 その声に対し、グラクトは冷たく見下ろした。

 

「判決を続ける。被告人には、学則に基づき相応の懲戒を科す。詳細は生徒会規程に従い、後刻通達する。以上をもって、本件についての裁定を終える」

 

 木槌が、再び鳴った。

 

 その音は、ただ一人の伯爵子息の有罪を意味するものではなかった。

 

 それは学園という箱庭において、身分による私的制裁はもはや当然の権利ではなくなったという、明確な判例が歴史に刻まれた音だった。

 

   ◇

 

 傍聴席の後方。

 

 白い軍服を着たレオンハルトは、微動だにせず、その判決を見つめていた。

 

 彼の胸の内で鳴り響いていたのは、単なる感心ではない。もっと深く、もっと強い衝撃だった。

 

『……これが、学則か』

 

 武とは力だ。だが、その力が何を守るために使われるべきか。誰の上にも立たず、誰の下にも堕ちず、ただ秩序そのものを平等に支えるための基準があるのなら――――それは、元帥家の嫡男として学ぶべき最も重い“正義”ではないか。

 

 彼はゆっくりと拳を握りしめた。

 

『ならば、私はこの客観的な秩序を守る剣になりたい』

 

 今日この場で確定したのは、一つの暴力事件の有罪だけではない。未来の国軍が従うべき、新しい国家の骨格の萌芽だった。

 

   ◇

 

 一方で、レティシアはまるで別の世界にいた。

 

 頰の痛みはまだ残っている。法廷の厳粛さも、伯爵子息の蒼白も、平民たちの震える拍手も、見えていないわけではない。だが彼女の脳内で再生されている物語は、あまりにも都合よく加工されていた。

 

『やっぱり……!』

 

 胸の前で両手をきゅっと握りしめ、レティシアは熱に浮かされたように頰を赤くする。

 

『グラクト様が、ちゃんと私を助けてくれた……! しかも皆の前で、身分に関係なく私の味方をしてくれるなんて……! これ、完全にメインルートの大型好感度イベントじゃない!』

 

 現実には、自分はあくまで暴行の構成要件を立証するための被害者証言として処理されただけであり、グラクトが彼女個人のために学則を曲げたわけではない。

 

 だがレティシアにはそんなことは分からない。分かりたくもない。

 

『よかった……! ちゃんとシナリオ、進んでるんだわ!』

 

 彼女は勝手な安堵に胸を熱くしていた。法廷の張り詰めた空気の中で、ただ一人、彼女の瞳だけが『私と王子様の物語』という甘く陳腐なフィルター越しに世界を見つめている。その無邪気な狂気は、この場にいる誰よりも、この歴史的裁判の本当の意味から遠かった。

 

  ◇

 

 そして――――訴追官席のリュートだけが、まったく別の地平を見ていた。

 

 制度としては、完璧な勝利だった。想定していた通り、学則は最初の一件において身分秩序へ優越した。しかもそれを宣言したのは、第一王子グラクトその人である。生徒会長としての名目も、次期国王としての権威も、すべて法治の最初の判例に奉仕させることができた。

 

 本来なら、胸のすくような瞬間のはずだった。

 

 だがリュートの胸の内に広がっていたのは、冷ややかな達成感だけではない。むしろ、それを塗り潰しかねないほどの鈍い痛みだった。

 

 兄は、理解した。少なくとも、今日この法廷においては。身分の論理に逃げず、学則の趣旨を自らの頭で解釈し、突きつけられた『選択肢』を自らの意志で摑み取った。

 

『……遅すぎる』

 

 心の中で吐き捨てる。

 だが、同時に別の声が囁く。

 

『本当に、ただ遅すぎただけなのか?』

 

 兄が、自ら正しい選択肢を摑み取れる人間だったのだとしたら。

 

 もし、あの幼い日に。兄を「理解する器ではない」と切り捨てるのではなく、自分がこうして真正面から選択肢を提示し続けていれば。

 

 もし彼が、その選択肢を摑んでくれていたなら――――。

 

 リュートと、リーゼロッテと、グラクト。

 

 三人で兄弟として机を並べ、母であるルナリアの教えを共に請い、同じ未来を歩むことができたのではないか。

 

 そうして自分たちが手を取り合えていたなら、派閥の対立も凶行も生まれず、母が死ぬという悲劇そのものが、そもそも起こり得なかったはずなのだ。

 

 その残酷な可能性に、今さらどれほど打ちのめされても、もう過去は返らない。

 兄弟の道は、すでに血の海で分かたれている。

 

 リュートは静かに目を伏せた。

 

 法廷には、まだ拍手が残っていた。新しい秩序の誕生を祝うにはあまりにも小さく、頼りない音。だが、それでも確かに始まってしまった音。

 

 法治国家という怪物は、もう産声を上げている。

 そしてその最初の判例は、兄弟の取り返しのつかない断絶と、遅すぎた理解と、取り返しのつかない喪失の上に打ち立てられた。

 

 グラクトは裁判長席に座ったまま、静かに法廷を見下ろしていた。

 

 エドワルドはその横顔を見つめ、もはや何も言わず、ただ次に来る政治的混乱の計算を始めている。レオンハルトは新しい秩序への忠誠を胸に刻み、レティシアは夢見がちな勘違いの中で胸をときめかせている。

 

 誰もが、同じ判決を見ていながら、別々の意味を受け取っていた。

 

 そうして、第一回学園裁判は閉廷した。

 

 それは一つの事件の終わりではない。

 

 むしろ、すべての始まりだった。

 

 身分ではなく学則が人を裁く。

 

 その当たり前で、だがこの国では最も危険な前提が、ついに公然の事実として歴史に刻みつけられたのである。

 

 

 

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