リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第4話『打算なき劇薬1』

1 孤立する王と、管理された寝室

 

 初めての学園裁判が終わったその日、王立学園の空気は、確かに変わっていた。

 

 大講堂を満たしていたざわめきは、判決の瞬間を境に、あまりにもはっきりと色を変えた。下位貴族や平民の特待生たちが向ける視線には、畏れと、かすかな希望が混じっている。対して、中位以上の貴族たちがグラクトへ向ける目には、戸惑いと、測りかねるような冷たさが宿っていた。

 

 彼らは、王の威光そのものを否定しているわけではない。むしろ逆だ。第一王子たるグラクトの品位と権威を、これまで以上に意識している。だからこそ、自分たちが当然のように持っていたはずの「身分による裁量」が、彼の名の下に、成文法という形で切り落とされたことを飲み込めずにいた。

 

 廊下ですれ違う上級貴族たちは、以前より恭しく礼をする。だがその一礼の奥には、露骨な親しみも、打算に満ちた追従もなくなっていた。

 

『――――あの殿下は、どこまで本気なのか』

『――――我々の側に立つお方なのか、それとも』

 そんな測りかねる不安が、学園中に薄く広がっていた。

 

 生徒会役員たちの態度も、表面上は変わらない。エドワルドは相変わらず完璧な礼節を保ち、必要な実務を一つの遅滞もなく処理していたし、リュートもまた、副会長として涼やかな微笑みを崩さなかった。ベアトリスとライオネルは風紀官の統制に戻り、アイリスとヴィオラもまた、それぞれの持ち場で何事もなかったかのように振る舞っている。

 

 だが、グラクトには分かっていた。

 誰一人として、今日の判決を「ただ良き裁きでした」と無邪気に称えてはいない。学則に基づいて、客観的事実から有罪とした。その結論そのものに、後悔はなかった。あのまま身分秩序を言い訳に暴力を正当化すれば、学則は初日で死ぬ。それだけは、もうはっきりと分かっていた。

 

 けれど、正しい裁きを下したはずなのに、空気はどこか重い。自分を取り巻く盤面が、目に見えぬところで静かに軋んでいるのを感じる。

 

『――――結局、私はまた、誰にも喜ばれないのか』

 そんな考えが脳裏をかすめた瞬間、グラクトは小さく唇を嚙んだ。それは、次代の王として抱くにはあまりにも幼く、弱い感情だった。

 

 夕刻。表向きの公務と役員との最低限の確認を終えたグラクトは、重い足取りで自室へ戻った。

 

 王立学園の第一王子専用室は、少年一人に与えるにはあまりにも広く、豪奢だった。重厚な扉、厚い絨毯、磨き抜かれた調度品。だがそこには安らぎよりも先に、徹底した管理がある。

 

 扉を開けた瞬間、鼻先にかすかな香が届いた。

 室内の奥、控えめな灯りの下で、一人の令嬢がすでにグラクトを待っていた。年は彼とそう変わらない。淡い色の夜着の上からきちんと肩を覆う羽織をまとい、姿勢よく椅子に腰掛けている。その所作には、過不足なく訓練された従順があった。

 彼女はグラクトの姿を見ると、すぐに立ち上がり、深く礼を取った。

 

「お帰りなさいませ、殿下」

 柔らかな声で告げるその姿には、何一つ落ち度がない。アイギス公爵家出身である王妃マルガリータの厳格な管理下で選抜され、教育され、整えられた「奉仕役」として、完璧だった。

 

 グラクトは一瞬だけ、返す言葉を失った。

 彼女の名を、知らないわけではない。だが、知っているのは帳簿に記された家名と年齢、健康状態、そして『問題なし』という簡潔な評価だけだ。実家がどのような状況で、どんな思いでここに来たのか。彼女自身が何を望み、何を諦めてこの部屋にいるのか。そうしたことを、グラクトは一度も考えたことがなかった。

 

 いや、考えること自体を許されていなかったと言うべきかもしれない。

 王家の血統は、管理されねばならない。王族の情欲や衝動が、勝手な婚姻や身分なき落胤によって政治の盤面を乱すことは許されない。ゆえに、選ばれた令嬢が与えられ、報酬と地位を約束され、必要な処置を受けた上で、王族の寝室は事故なく運用される。

 それが、この国の常識だった。

 

 王妃が整え、側妃たちが補助し、臣下たちが当然の制度として受け入れてきた、王家の『品位を守るための仕組み』。そこには、愛も、嫌悪も、本来は不要なのだ。ただ役割があり、義務があり、血統のための最適化があるだけ。

 

 だからこそ、グラクトは今、この静かな部屋の中でひどく息苦しさを覚えていた。

 今日、自分は法廷で法は身分に優越すると宣言した。暴力を当然の権利とみなす旧い秩序を、公然と否定した。その日の夜に、自分はまた、誰かの人生も感情も知らぬまま、王家のシステムの一部としてこの部屋に戻ってくる。

 

 それは矛盾なのか。

 それとも、王である以上、切り分けて受け入れねばならない別種の現実なのか。

 答えは分からない。ただ、昼の法廷に立っていた時とは違う種類の息苦しさが、胸の奥をじわじわと塞いでいく。

 令嬢は、グラクトの沈黙をどう解釈したのか、慎ましく視線を伏せたまま口を開いた。

 

「殿下。お疲れのようでしたら、今夜は休まれますか。それとも、お茶の支度をいたしましょうか」

 あくまで控えめな申し出。その気遣いに咎めるべき点は何もない。だからこそ、思ったより強い拒絶が喉から飛び出した瞬間、グラクトは自分自身をひどく嫌悪した。

 

「……いや」

 令嬢の肩が、わずかに震える。

 

 グラクトはすぐに声音を悔いた。だが謝罪の言葉も出てこない。謝れば済む話ではないことを、直感的に分かってしまったからだ。彼女は悪くない。むしろ、何一つ悪くない。ここにいるのは、王家の求める通りに整えられ、役目を果たそうとしているだけの娘だ。責められるべき点などどこにもない。

 

 それなのに、自分はこの空間そのものから逃げ出したいと思っている。

「……少し、風に当たってくる」

 それだけを絞り出すように言い残し、グラクトは部屋の奥へ進むこともなく踵を返した。

 

 背後から、令嬢の困惑した気配が伝わってくる。だが振り返れなかった。逃げ出すように部屋を出て、廊下を歩く。誰にも行き先を告げず、護衛もつけず、ただ無意識のまま足が向いたのは、夜の温室だった。

 

 学園の一角にあるその温室は、昼間こそ令嬢たちの憩いの場として穏やかな賑わいを見せるが、夜ともなれば人影はほとんどない。分厚い硝子の向こうに月光が滲み、薄闇の中で植物たちが静かに息づいている。

 

 温室の扉を押し開けた瞬間、湿り気を帯びた夜気が頰を撫でた。少しだけ、胸の奥の圧迫感が和らぐ。誰もいない。少なくとも、この瞬間だけは。

 

 グラクトは奥のベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。

 法廷で王を演じることはできる。判決に責任を持つことも、きっとできる。けれど、こうして一人になった瞬間、胸の中に残るのは、「正しかったはずなのに、なぜこんなにも苦しいのか」という、あまりにもみっともない感情だった。

 

 今日、有罪を言い渡した時の伯爵子息の顔。傍聴席に走った、あの凍りつくような沈黙。役員たちの崩れぬ表情。そして、自室で待っていた、名も事情も半分しか知らない令嬢の伏せた睫毛。全部が、重くのしかかってくる。

 

『――――私は、王なのか。それとも、ただ用意されたシステムの上で動いているだけの、空っぽの器なのか』

 

 月明かりの差す温室で、グラクトは片手で顔を覆った。その姿には、昼間法廷で木槌を打ち鳴らしていた裁判長の威厳など、どこにもなかった。ただ、自分を責めずに「あなたは間違っていない」と言ってくれる誰かを、ひどく幼く、身勝手に求めてしまう、一人の少年の弱さだけがあった。

 

 

 

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